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2006/01/29 (Sun)

「mixi(ミクシィ)」って

 今日は、旧暦の元日にあたる春節です。中国の文化が色濃くある中華街などでは、爆竹などで賑やかにお祝いされています。日本でも、中国文化の影響で、沖縄でも盛大にお祝いされるそうです。
 さて、先日の「コーチのためのアロマ教室」 でご一緒した方から「mixi(ミクシィ)」参加のお誘いを受けました。この「mixi」は、「ソーシャル・ネットワーキングサイト」で、ブログに近い感覚で、ネット上で人のつながりを作ろうとするシステムの1つです。面白いのが、基本的にすでに参加している人から紹介を受けないと参加できないことと、趣味などでグループを作ったり、仲間を探せたりできるということです。始めはネット上のつながりでも、オフ会などで実際の人間関係につながることもある。かなり、奥深そうです。
 でも、ブログとの同調(ブログの新規エントリー情報の更新)が取れずにいましたが、どうにか先ほど、ブログとの同調に成功!当面は、ブログでの更新ですが、「mixi」もちょっと面白いものです。

▽「mixi」のサイトは、こちら

2006/01/22 (Sun)

レポート作成中!

 今週末は、レポート書きに家でパソコンの前に貼り付けです。レポートは、今春から大学院に入るための入試の資料です。「自分の5年後・10年後のキャリアゴールを述べよ」、「少子化対策でいまどんなことが採られているか」など全部で5題。各題2,000字以上とかなり、話しを広げるには難しい・・・。
 で、どこのどんな大学院の入試かは、ナイショです。結果が出たら、また発表します。(ヒントは、下の写真からわかる通り、R大学の大学院です)



2006/01/21 (Sat)

「ニコン・ショック」

 カメラの老舗、ニコンがフィルムカメラから事業を撤退する。さらに、コニカ・ミノルタもカメラ事業から撤退するようだ。いまやカメラはデジカメが主流。しかし、フィルムカメラにはデジカメには表現できない再現力がある。今回のニュースは、まさに私にとってショックなこと。私の愛用するカメラは、ニコンの一眼「F-801」。15年以上前に発売され、シャッタースピードが最速1/8000秒という、当時としてはかなりの優れもの(もともと親父のものだったが、親父が使いこなせず、だいぶ前から私用に)。いまでこそ、カメラ屋で中古品が1万円台で売られていて、悲しくなったが、デジカメ一眼にも勝るとも劣らず、現役そのもの。小笠原の旅でも大活躍、おかげでイルカのスピンジャンプの決定的瞬間を捉えることができた。
 今回のニュースは悲しいことだが、やはりデジタルとアナログの良さをうまく使い分けられる社会が大切だと思うのだが。


愛用のニコン「F-801」

「ライブドア・ショック」

 話題で事欠かないライブドアに、粉飾決算した疑惑が持ち上がた。
 早速、非常勤でいっている高校の授業で話題にした。簿記の授業で、財務諸表のことをやっていたので、ライブドアの有価証券報告書をウェブからダウンロードして、疑惑の財務諸表を生徒に渡してみた。
 結果論だか、やっぱり、経常利益は約14億円は怪しい・・・。前期の経常利益は、約4億円。1年で3倍以上の成長・・・。売上高の項目で、売上原価がよくわからない、「ネットメディア収入」と「コンサルティング収入」となるものがこれまたかなり怪しい・・・。
 M&Aや株取引といったものを身近にしてくれたライブドア。しかし、ITバブルで沸いた日本もそろそろ落ち着く頃なのかと思ったりします。

※ライブドアの有価証券報告書は、こちらからダウンロードできますよ。

2006/01/18 (Wed)

「コーチのためのアロマ教室」

 先日の14日に、「コーチのためのアロマ教室」に参加しました。
 お世話になっている方が主催した講座で、お誘いをいただきアロマの基礎を学びました(私は、コーチの資格はないのですが、コーチングのスキルをいろいろな場で活用しています)。
 ワークショップを行う上で、「場」をつくることが主催者やファシリテーターに求められますが、「場」の展開に応じて、アロマテラピー(香り)を効果的に使うことは面白い感じがします。音楽や照明、椅子などの並びに加えて、五感のひとつの「香り」は人間の心理を変える作用があります。
 例えば、「オレンジ」はリラックスとリフレッシュ、「ラベンダー」は心と身体の鎮静、「ペパーミント」は眠気覚ましといった具合に、場面にあわせて使い分けることができる。でも、多品種を短時間で使用すると、気分が悪くなりかなり危険です。何事もほどほどに。
 講座後の懇親会では、中華街の「菜」というお店と、元町のBARに行きました。両方とも雰囲気がよくすっかり時間を忘れていました。

2006/01/16 (Mon)

通信大学のテスト終了!

先日の13日に、高校の情報科の教員免許状をとるために科目等履修生で受講してきた、「北海道情報大学」の科目試験を東京の中野の会場で受けてきました。
昨年の4月から前期でほとんど単位をとったので、後期は「システム設計演習」の1科目のみ。
たぶん、単位は取れたと思うが・・・。しかし、結果が来るまで安心はできない。

2006/01/10 (Tue)

小笠原から帰ってきました。

今日、小笠原から帰ってきました。
小笠原では、思い出に残る経験ができました。
イルカやクジラを見ることができ、イルカと泳ぐこともできました。
また、小笠原で一緒になった方々やお世話になった宿のパパヤさんのスタッフの方に出会えて良かったと思います。
写真などをまとめて、後日、ブログにアップします。



2006/01/09 (Mon)

小笠原の旅記録(5日目・6日目)

 前日までの天気とうって変わって、風も穏やかで快晴の朝だった。荷物をまとめ、宿のみなさんに教えてもらったパン屋「ローカルベーカリー」に向かう。

 このパン屋は、島特産のパッションフルーツを使ったパンがおいしいとのことで、お昼にいただこうと思い買いに行った。地図で確認したので、間違えなかったが、ふとすると見過ごしてしまうところにあった。目当てのパッションフルーツのパンのほか島の天然塩を使ったパンやバナナクリームのパンも買った。



父島は東京から1,000キロ!


パッションフルーツの入ったパンなど

 宿に戻ってからは、行っていなかったビジターセンターや土産を買うため、お店を回った。ビジターセンターでは、イルカやクジラの情報はもちろん島の歴史を知ることができた。お土産は、何を買うか迷ったが、同部屋の島本さんが教えてくれた「makimaki」にまず、行ってみた。ここでは、センスのいいオリジナルデザインのTシャツがトレーナーなどが売っていたが、気に入った色が売り切れということで、今回は諦めた。結局、お土産は、島唐辛子クッキー、パッションフルーツクッキー、ラム酒とパッションフルーツリキュール、絵葉書、モニターキャンペーンのアンケートと引き換えにもらったポスター、そしてパパヤさんのオリジナルTシャツとスポーツタオル。



ビジターセンターにて


お世話になった「パパヤ」さん

 昼食は、宿近くの大村海岸で日向ぼっこをしながら、朝買ったパンを食べる。甘いくてこれがおいしい。海岸ではのんびりと時間が流れる。今日島を離れる気がしなかった。
 そうこして1時を回り、のんびりおが丸乗船場に向かった。乗船手続きを済ませ乗船を待つと、宿に泊まっていた人も揃い、一緒に写真などを撮った。宿のほとんどの人は帰りも2等ということもあり、出航間際にまとめて乗船した。荷物を置き、すぐにデッキへ。パパヤのスタッフの方がすでに見送りに来ていた。目立つノボリで分かりやすい。



二見港の「おが丸」


パパヤのスタッフのみなさんお世話になりました

 スタッフの皆さんに手を振り、2時過ぎ船はゆっくり出港した。出航後、何艘かのクルーザーが伴走する。5分経っても、クルーザーから手を振り見送る。そして、やっぱり目立つのがパパヤの「ミス・パパヤ」スピードが違います。最後まで「ミス・パパヤ」は、おが丸に伴走し、そしてスタッフの方や乗船するお客さんが飛び込む。パパヤのみなさん、ありがとう。ホントまた来たくなるな~。



いくつものクルーザーが伴走


「ミス・パパヤ」はさすが違います!

 おが丸は、父島から離れ長い、帰路についた。帰りは、宿で一緒になった皆さんと、トランプやウノで盛り上がった。ここでもお酒を呑み、長い帰路を短くしてくれた。同じ部屋の中川さん、米田さん、島本さん、仲村さんのほか、高畠さん、廣畑さん、池上さん、三橋さんと楽しい時間を過した。気がつけば、東京に着いていたようで、東京に着く前にみなさんとメールアドレスなどを交換した。
 こうして、25時間半の船旅は、行きよりもあっという間で過ぎ、翌日の3時半ごろ竹芝埠頭に着いた。小笠原での過ごした時間は、久しぶりに自然の豊かさと人との出会いの心地よい刺激を与えてくれた。でも、いつもの通り、冬の東京は寒かった。(おわり)

※旅でお世話になった方々のリンク集
▽「トロピカル・イン・パパヤ」&「パパヤマリンスポーツ」(宿泊先・ツアー)
http://www.interq.or.jp/blue/papaya/index.htm
▽「小笠原海運」(おがさわら丸)
http://www.ogasawarakaiun.co.jp/
▽「小笠原村観光協会」(宿やお店などの情報)
http://www.ogasawaramura.com/
▽「小笠原ホエールウォッチング協会」(クジラやイルカの情報)
http://www.ogasawara.or.jp/owa/
▽「makimaki」(オリジナルTシャツなど通販あり)
http://www2.odn.ne.jp/makimaki/
▽小笠原の天気予報(「マピオン」テレビでは分からないピンポイント・週間予報あり)
http://www.mapion.co.jp/weather/admi/13/13421.html

2006/01/08 (Sun)

小笠原の旅記録(4日目)

 前日の風が気になっていたが、今日も風は強い。でも起きたら、パパヤさんのスタッフの方にはすでに、準備を始めていた。

 9時ごろ、ツアーの参加者が集合し、「ミス・パパヤ」のある港へ出発した。ツアー参加者は、宿の宿泊者以外の方も含め、15人近く。心配した風は少なからず吹いていたが波もまだ、うねっていた。残念ながら、ケータ島(聟島)へは風と波で行けなかったが、今日もイルカとクジラとの遭遇に期待できそうだった。



パパヤの田中さんからクジラの生態についての説明


出発!


「ミス・パパヤ」です。

 船はまず、南島近く、ハートロック、巽島など父島を時計と反対まわりで通り、兄島瀬戸へ。早速、シュノーケリングをする。ここは、海中公園で珊瑚と熱帯系の魚がたくさん見られる波静かなところ。10分ほど漂い船に上がったが、風で寒さが増す。程よくして、昼食を船内で取る。船内では、コーヒーや味噌汁などスタッフの方が用意してくれた温かい飲み物と持参したおにぎりで、体を温める。



「ハートロック」


こんな島も。何に見えるかな?


兄島瀬戸は海中公園

 昼食後、イルカが目撃された情報が船内に入り、船はイルカを追った。そして、イルカの群れを発見。明らかに、前々日より数は多い。前回は、写真がうまく取れなかったので、今回は船の上からデジカメと一眼2台構えそのときを待った。「来た!」と、バンドウイルカのジャンプの瞬間を何度も撮った。船が揺れるので、写真を撮るにも一苦労。写真を撮ることに夢中だったので、イルカと泳ぐタイミングを逸した。でも、それはそれでよかった。たくさんのイルカの群れと船が平行して、1時間以上はイルカたちの見事な波乗りを間近で見ることができた。



イルカ発見でみんな海へダイブ


イルカは大群です


イルカがジャンプ!

 イルカの群れを船が追っていたら、来たルートを戻り、南島の近くに来ていた。また、南島では、ザトウクジラも発見し、ブローのほか、遠くではあるが尾っぽ立ててもぐる様子を見ることができた。残念ながら、間近でブリーチング(高いjジャンプ)は見られなかったが、この日もきれいなサンセット。海のほか何もない、水平線を眺めながら、船は5時過ぎ港に戻った。



夕陽の中クジラを追う


何もない水平線


サンセット!

 宿に戻り、シャワーを浴び、パパヤさんでの「さよならパーティ」に参加。島鮨や島魚の料理など普段食べることのできない料理や島レモンを使ったパパヤさん特性のジントニックをいただいた。さらに、イルカのビデオも見せていただいた。水中ビデオカメラで撮ったものもあり、夏にもう一度イルカと泳ごうという気にさせてくれた。こうして、小笠原での最後の夜は更けていった。

2006/01/07 (Sat)

小笠原の旅記録(3日目)

 朝起きてびっくりした。風が半端ない。台風の並みの強風。テレビの天気予報で確認すると、北風の黄色マークで、波も3メーター以上。

 「こんな波じゃ海に出られない」と部屋の皆さん。「ミス・パパヤ」のツアーも中止。幸いか私は、この日、自転車で父島を一周しようとしていたので、海には出ない。でもやはり、自転車にとっても風はやっかいものだ。
 9時ごろ、パパヤさんにマウンテンバイクを借り、父島を時計回りで出発した。まず、島の北西部にあたる大根山公園に向かった。大根山公園は島の方の墓地公園で、高台から二見港が見渡せた。続いて、島のランドーマーク「ウェザーステーション」こと三日月山展望台へ。展望台では、島の北側の海を見渡せたが、強風のため寒くなりすぐに退散。三日月山の方にも行こうとしたが、にわか雨にたたられ、途中で断念。



大根山公園から二見港を望む


大根山公園からウェザーステーションを望む

 一旦、登った坂を下り、北西の浜へ向かう。まず宮之浜へ向かったが、途中、同部屋の米田さんに会う。「この波じゃとても泳げない。別の場所へ行く。」とウエットスーツ姿に自転車で引き返してくるところだった。程なくして、宮之浜へ。確かに波は強く、サーファーが数人いただけだ。続いて、宮之浜の西にある釣浜にも行ったが、同じように波は強い。



宮之浜


釣浜

 浜辺を見たところで、本格的な山登りコースへ。島の山間部の夜明山・中央山への道へ向かった。奥村の集落を少し入ったところから、キツイ急坂。九十九折の道と強雨風で、まったくペダルが進まず、ところどころ自転車を押して行く。坂途中で、海でのツアーに代えて、山のツアーに出ていた、パパヤさんの車とすれ違う。夜明山の手前に旭山の登山口があり、当初予定していなかったが、自転車を止め、旭山の山頂に向かった。旭山には2つピークがあったが、距離が近い、南峰山頂へ。山頂では、台風並みの強風で立っていられない。二見港の眺めが最高だが、カメラもぶれるほど。そそくさと退散し、道路に戻ったところで、昼食のパンをかじる。



旭山南峰から二見港を望む

 昼食後、再び夜明山に向かったが、途中にでかいパラボラアンテナがあったので寄ってみた。これは、国立天文台の持ち物で、日本全国に4基ある宇宙の銀河系全体の観測するアンテナのうちの一つ。
写真を撮ろうとした時、でかいアンテナが急に向きを変えた(5分おきぐらいに1回動く)ので、びくっとした。その後、夜明山に着いた。着いてびっくりしたが、首のない二宮尊徳さんの像があったり、戦争の時代に使われた建物(戦跡)があり、かなり怖いスポットだった。でも、初寝浦展望台からの初寝浦の眺めは、抜群に良い。



国立天文台のパラボラアンテナ


初寝浦展望台から初寝浦を望む

 夜明山から中央山に向かう途中、見たこともない道路標識を見かける。動物注意の看板だが描かれている動物が珍しく、なんとヤドカリ。島固有のヤドカリが多く見られるとのことで、標識があるようだ。また、ここに来るまでも何種類かのヤギの標識を見かけた。ヤギもまた島にはたくさんいる。夜明山から見た、初寝浦へは、道路から1時間半山道を下りさらに来た道を引き返し登るとのことで、断念し、代わりに自転車を置き、中央山の山頂を目指した。山頂に向かうまでに、同じ宿で、昨日いっしょにお酒を呑んだ、高畠さん、廣畑さんに会う。「山頂は風が強いですよ。」と、予想通りの状況だ。行ってみるとやっぱりという感じで、腰がひけた姿勢でどうにか写真を撮った。



「ヤドカリ注意!」


「ヤギ注意!」

 中央山からは、ダウンヒルで一気に下り、小港海岸へ。時間と体力があれば、昨日見た、ジョンビーチ、ジニービーチまで行けたが、時間と体力的にきつかったのでやめ、代わりに小港海岸に自転車を置き、コペペ海岸への往復ハイクに出た。しかし、これが結構、こたえた。近いように見えていたが、断崖を越えるコース。どうにか、コペペ海岸に着いたが、一休みが必要だった。休んでいる時に、ひとりの女性がラジカセの前で、音楽をかけながら踊っていた。しばらく、見ていたが、どうやら踊りはフラダンスで、夕陽がいい感じだったので、写真を撮ってもいいかのお願いついでに、話しかけた。彼女は元々、関東出身だが、小笠原の職場の関係で住み始めたようで、島のフラを習っていて、「内地より、講習料は安いですよ。」とのこと。陽が傾き始めたので、再び引き返し、小港海岸から宿に戻った。



小港海岸


コペペ海岸でフラの練習

 宿には、5時ごろ着き、同部屋の人と今日の話しをする。夕食は、米田さんとある居酒屋の南国カレーを食べたが、これがおいしい。島唐辛子を使ったカレーで、病み付きになる辛さ。満足したあとは、再び宿に戻り、昨日とほぼ同じメンバーで、お酒を飲む。2日目ともなると、みなさんの素性が分かってきます。 

2006/01/06 (Fri)

小笠原の旅記録(2日目)

 翌朝、6時ぐらいに目が覚めた。すっきりとした目覚めではない。起きて、外を見たが、朝日は望めなかった。

 起き掛けに、熱いコーヒーを飲み、パンをくわえる。気が付けば、あと数時間で小笠原に着くところまで船は来ていた。9時からは、船内見学ツアーに参加。操舵室やエンジンルームを乗組員の方から説明を受け見学した。船は、就航後10年も経っていない優れもので、もちろんほとんどがオートメーション化されている。でも、手書きの海図やアナログのコンパスがあり、デジタル化の現代でも、アナログの世界は消えていない。こうして、乗組員の方は4時間交代で船の安全を守る。見学ツアー後、到着の11時半までの時間を、再び本を読んだり、音楽を聴きながら過す。25時間半、長いようで案外短かった。




 やがて、久しぶりに島が見えてきた。小笠原諸島の無人島、聟島(ケータ島)だ。私は、この島に行くツアーに申し込んでいた。その後、父島が大きく見え始めた。小笠原でも、メインになるのがこの父島と南部の母島。おが丸は、やや遅れ、12時ごろ小笠原の父島二見港に着いた。



 下船したら、小笠原での宿泊先となるパパヤさんのスタッフの方が出迎えてくれた。さらに、同じパパヤさんに泊まる何人かの人と、車に乗り込み宿へ。程なくして、宿に着き、パパヤのご主人の田中さんから宿泊客の紹介とインフォメーションを受ける。私の泊まる部屋は、男性相部屋。インフォメーション後、この日一緒になった2人と共に部屋へ。部屋にはすでに、他の2人が年末から泊まっていたようで、軽く自己紹介をした。

 部屋に荷物を置きひと段落し、島をぶらぶらしようとパパヤさんで自転車を借りようとしていた時に、同じ部屋の米田さんから「この後、パパヤで南島に行くツアーに行かないか?」と誘われ、迷ったあげく参加した。これが、正解だった。ここでのツアーは、8日のケータ島ツアーをすでに申し込んでいたが、行く場所が違うことと運がいいとイルカと泳げるということで、飛び入り参加。ウエットスーツ、フィン、マスクのシュノーケリング3点セットを借り、港へ。参加者は私を含め5、6人。

 港から、パパヤ所有のクルーザー「ミス・パパヤ」に乗り込む。「ミス・パパヤ」は、なかなかしっかりとしたつくりのクルーザーで、もちろん釣り船のような古臭さはない。港を離れ、やや荒れた海に出た。しばらくして、穏やかな浜近くのブイに船を停泊させた。ここで、シュノーケリングの練習をする。「そういえば、シュノーケリングは初めてだった」と思いながら、ライフジャケットを着用し、難なく海に漂っていた。きれいな魚や珊瑚をしばらく見てから、船に上がった。

 南島を目指す途中、スタッフの方から「イルカを発見!」という船内アナウンス。なかなか、素人目では遠くからは発見できない。しばらくして、私もイルカの影を見つけた。「泳ぐ準備を!」というアナウンスで、急いで準備を整え、「GO!」の合図で海へ。何がなんだかよく分からないうちに、目の前にはイルカがいた。波の影響でイルカから離れて行ったが、かわいい「バンドウイルカ」だった。このとき、水中カメラをもて来るべきだったと後悔した。

 日が傾き始めたころ、船は南島に向かっていた。かなり波があり、船は揺れる。なんとも言えない雲に日は隠れている。南島が見えてきた。パンフレットでは、南島へは1月いっぱい規制で行けないと書いてあったので気になっていたが、泳いで島に上陸すると聞いてびっくり。南島のシンボル、扇池のちょっとした岩間から島に上陸した。荒れた波で、なかなか進まないし、岩にぶつかりそうになる。何とか上陸すると、きれいな浜辺と、浜辺に落ちている(?)無数の貝殻が出迎えた。ちなみに、貝殻は「ヒロペソカタマイマイ」で、1,000年から2,000年前に絶滅したと言われる化石で、持ち出し禁止の天然記念物だ。きれいな浜と「ヒロペソカタマイマイ」の化石、さらに扇池から覗く夕陽。しばらく、見惚れた。




 その後、ジョンビーチ、ジニービーチを眺め、サンセットクルージングで港に戻った。ツアーでは、クジラも見かけた。ただ、遠くでブロー(俗に言う潮吹き)を何度か目撃できたので、半日でいい経験ができた。

 宿に戻り、冷えた体をお風呂で温め、同じ部屋の米田さんと仲村さんで、まちの居酒屋で夕食を食べた。島の特産、ウミガメ料理(刺身、煮込み)と島魚を食べた。ウミガメは、初めて食べたが、まったく癖がなく(逆に味が薄い)、淡白。黙って出されたら、分からない。

 8時前に宿に再び戻り、他の宿の方6人と、お酒を呑み、盛り上がる。半分が私と同じくモニターキャンペーンで初めて小笠原に来た方で、もう半分がパパヤのリピーター(常連さん)。でも、関西、東北と内地(小笠原から見た本州など)で見ると、私より遠いところから来た方ばかりだ。

 こうして、小笠原での初日は、大満足の一日で終わった。

2006/01/05 (Thu)

小笠原の旅記録(1日目)

 生まれて初めて小笠原に行くというのに、新年早々、山手線の通勤電車に乗って、浜松町駅から竹芝埠頭に向かった。

 朝、ツアーの集合が8時半ということだったので、普段平日早朝には乗らない通勤電車を乗り継ぎ、小笠原への船「おがさわら丸(通称:おが丸)」が出る、竹芝埠頭へ。浜松町の駅からほんの5分、船の帆をモチーフを正面にする埠頭ターミナルに着いた。私が着いた時に、ちょうどおが丸が、埠頭に着岸しようとしていた。ターミナル内では、すでに、小笠原や大島行きの船を待つお客さんでごった返していた。

 8時半になり、ツアーの受付をして、乗船券を受け取った。10時出航なので、かなり時間が余ったが、写真を撮ったり、音楽を聴きながら時間を過し、乗船時間を待った。9時半ごろに2等客室に乗船(帰りの船で知ったのだが、出航間際に乗れば、定員にならず空きがあれば、何人か分のスペースを使える)。
 10時ちょっと過ぎに、出航。見送りの人が、埠頭から手を振る。バックには、ビル街と東京タワー、そして「ゆりかもめ」。都心では、なかなか味わえない風景だ。25時間半の船旅の始まりは、風景のアンバランスさもあり、不思議な感じだった。



 出航後、船はレインボーブリッジの下、台場近くを通り、東京湾を南下した。天気はどん曇で、かなり寒い。しばらくして船内で、昼食のおにぎりを頬張る。心配していた船の揺れは気にならなかった。午後は、ほとんど船内で、持参した本を読んだり、音楽を聴きながら過す。船内の2等客室は、言ってみれば雑魚寝場所で、あまり居心地は良くない。テレビがあり、NHKかビデオ上映がやっていたが、見ていてもつまらない。私のまわりのお客にも私と同じくモニターキャンペーンの資料を見ている人が多かった。




 そうこうして気が着いたら、夕方。5時ぐらいから、持ち込んだビールやチューハイを飲んでいた。つまみやおにぎりをつまみながら、ゆっくりとした船の時間を過す。船の揺れも手伝い、1時間ほどでほろ酔いに。8時過ぎに船内のシャワーを浴び、寝る準備を始めた。



 10時に船内が暗くなり、毛布に包まり眠りについた。しかし、船の揺れが気になり、寝付かない。天気は相変わらず、期待していた夜空は見られなかった。

2006/01/04 (Wed)

iCards

小笠原に行ってきます。」の書き込みで浜辺のポストカードを載せていますが、これは、Apple社のウェブサイトにある「iCards」というのを使っています。
実際のポストカードのような画像データを、相手のメールアドレスに送るというものです。
無料で、操作も簡単です。(macユーザーでなくても、Windowsでも使えます。)
季節の挨拶やお祝いに使えそうです。

2006/01/03 (Tue)

小笠原に行ってきます。


From iCards

1月5日から小笠原の父島に行ってきます。
小笠原は、東京の竹芝から出ている船便(片道でなんと25時間)でしか行けない、次期の”世界遺産”候補とも言われています。
今回、往復の船賃だけでも4万円以上かかるところを、3月までやっている「小笠原自然体験モニターキャンペーン」で、なんと38,800円で往復の船賃(2等)と宿泊代金(素泊まり・相部屋)、さらにホエールウォッチング・ドルフィンスイムのクルージングが体験できるクーポン券付きです。
初めての小笠原でいまから楽しみです。

(ちなみに、上のポストカードはイメージですので小笠原の様子ではありませんよ)

2006/01/01 (Sun)

ブログ開設と新年のごあいさつ


新しい年の幕開けともに、ブログを開設しました。
まだまだ、移転作業中のため、お見苦しいところもあると思いますが、今後ともごひいきにどうぞよろしくお願い致します。

私はチーム・マイナス6%です。

ページ右下にあるバナー

の通りですが、私は「チーム・マイナス6%」です。
これは、昨年から環境省か進めている地球温暖化防止キャンペーンの一種です。企業のCMなどでご覧になったことがあると思います。実は、個人でも参加できる、言うなれば「エコ人宣言」的なキャンペーンなのです(2006年1月1日現在で、約17万人が参加しています)。
環境問題の中で、一番やっかい(深刻)なのが、地球の温暖化です。私たちができることは、たくさんあります。ちょっと、したことを皆がやれば、温暖化は食い止めることができるはずです。
皆さんも「チーム・マイナス6%」に参加しませんか(バナーをクリックすると公式ウェブサイトに飛びます)。
ちなみに、私はこんなことを心がけていますよ。
・できるだけマイカー利用を控える。
・アイドリングストップをこまめにする。
・できるだけクールビズ・ウォームビズウェアーを着る。
・お風呂の残り湯の再利用。
・まとめて、洗濯、皿洗い、料理。
・エアコン・冷蔵庫の設定温度を適正温度にする。

ブログについて

このブログは、Six Apart社の「movable type」というシステムを使って、カスタマイズしています。また、携帯電話からもこのブログを見れます。携帯電話でのアドレスは、http://www.j-tabikobo.com/blog/mt4i.cgiです。
まだまだ、カスタマイズ途中なので、今は寂しい感じですが、ページのレイアウトなどを変えていきます。
なお、「movable type」のサイトはこちらです。

チャリの旅記録について

 私の学生時代の自転車(チャリ)での1人旅の記録をご紹介するコーナーです。現在、自転車日本一周の旅とアメリカ西部の国立公園の旅の記録を載せております。
 もう数年前になってしまいましたが、みなさんにその旅の思い出や出来事などを伝えるために作った連載コーナーです。(不定期更新)
 ごゆっくりとお楽しみください。

 日本一周編

 アメリカ西部編

コラムについて

旅コラム
 本当の自分に出会う旅をプロデュースするためのコラムを載せております。
 *現在、コラムはメールマガジン「風に吹かれてチャリの旅 ~旅は自分との出会い~」でも連載中! 

ワークショップ・カフェ
 私が仕事でよく使う「ワークショップ」というものをご紹介する連載コーナーです。

「ひとり旅のつくり方講座」ゲストのリンク集

■世界お遍路 千夜一夜旅日記
 国内編第1回目のゲストだった佐藤さんの個人ウェブサイトです。
 私と同じ横浜に長年住んでいらっしゃり、四国のお遍路暦は10年以上。
 お遍路さんの旅に関する書籍をたくさん書かれていらっしゃいます。

■ShinyaNakamuraWeb
 同じく国内編のゲストの中村さんの個人ウェブサイトです。
 518日間・2万3千kmに及ぶ、自転車日本一周の旅日記は感動します。
 今年の夏には、日本百名山制覇へ!

■Maruの汽車旅STATION
 同じく国内編のゲストの山盛さんの個人ウェブサイトです。
 普段は、愛知の私立高校の先生をされていますが、鉄道の旅の講座の講師としても大活躍。
 ウェブサイトの鉄道旅情報は豊富!必見です。

■Colors of Nature/環境共育事務所カラーズ
 海外編第1回目のゲスト、西村さんの事務所のウェブサイトです。
 環境教育・個人事務所業界(?)での先輩&おともだちです。
 西村さんの写真の撮り方や自然の中での楽しみ方には脱帽です。

■ヨセミテ国立公園大好き!
 同じく西村さんが主宰のアメリカ・ヨセミテ公園のファンサイト。
 日本語でのヨセミテに関しての情報量は世界一。

■「ひとり旅活性化委員会」掲示板
 海外編第1回目のゲスト、林さんも所属する委員会の掲示板。
 女の子のひとり旅(主に海外)を応援する委員会です。
 委員会の掲示板や本は、女性だけではなく男性のひとり旅にも参考になります。

■「みんなで作ろう南の島完全ガイド」掲示板
 同じく林さんが主宰する掲示板。
 南の島好きが集まる掲示板ですが、見ているだけで南の島雰囲気。

メールマガジンについて

※2006年9月26日をもって、約3年間発行して参りましたメールマガジンは廃刊させていただきました。
ご愛読誠にありがとうございました。



 「チャリの旅記録」をパワーアップさせた、メールマガジン「風に吹かれてチャリの旅 ~旅は自分との出会い~」を不定期でみなさまにお届けしています。ウェブサイトやブログ未公開のチャリの旅の知恵や情報、さらに旅に関する豆知識や旅の持つ魅力などを載せています。
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私的なリンクについて


■自分と出合う旅工房
http://www.j-tabikobo.com/

 「自分と出会う旅工房」は、「旅」をテーマに、「自ら成長する人」を支援する場やきっかけづくりの提供および新しい社会・教育システムづくりの提案を目的として、人と人、人と旅をつなぐ各種活動の企画・運営・支援・調査などを行なっています。


■Blowin' In The Wind ~風に吹かれて~
http://www.j-tabikobo.com/tomoyuki/

 「自分と出合う旅工房」代表 秋山の個人ウェブサイトです。ブログ移行前のウェブサイトです。

その1 「ワークショップ」って何?

 みなさんは、「ワークショップ」と聞いて、どんなことをイメージしますか?
最近は、いろいろなところで耳にする機会が増えたので、「ワークショップ」に参加したことがあるとか、または中には、仕事で「ワークショップ」をやったことがあるという方もいらっしゃると思います。

 連載第1回目の今回は、「この『ワークショップ』っていったい何?」というのを私が普段感じている視点からご紹介したいと思います。

 さて、この「ワークショップ」を私は数年前までは、土建屋さん関係のお店、いわゆる「ホームセンター」のことだと思っていました。これが、そうじゃないんですね~。
 「ワークショップ」を一言で言うと「工房」とか「参加者主体の学びの場」といった感じにまります。つまり、大人数でマニュアルにしたがってモノ作りをしたり、誰かが一方的に講義をしたりするのではなく、参加するみんなでモノ(成果)を協力して作りあげようという場(機会や手段)が「ワークショップ」なのです。

 そもそも、「工房」ということから分かるように技術職・モノ作りの世界では、一つの作品を作るとき何人もの職人が自分の持つ技術や才能を生かし、手をかけてよい作品を仕上げていくものが少なくありません。こういう作品は、大工場で大量生産されたモノとは違う味が出てきます。

 また、一方的に講義を受けて聞いているだけでは、話をしている人の意見や考え方が中心となり、話を聞いている人の意見や考え方がその場にいる人同士に共有されることはなく、話を聞いている周りの人はどう考えているのかよく分からず、話をする人と話を聞く自分の関係でしかありません。議題に関して自分の意見を言い、ほかの人の意見も聞き、みんなで議題を話し会う方が、自分と周りの人の関係が作れて楽しいということがあります。
 
 そこで、「ワークショップ」というものを注目されたのかも知れません。今の世の中、大量生産では本当のいいものは生まれず、また、一方的な講義では、つまらないもので、話す人の意見は聞けても、その場にいる人全員が意見を出し合い、納得できる楽しい話し合いにすることは望めません。何か自分の持っている技術・才能や意見や生かし、作品を作ることや議題を解決することが今の世の中、「ほんまもん」で「楽しい」ことかもしれません。

 さて、「ワークショップ」がどういった場面や分野で使われているのかは、次回にご紹介したいと思います。

その2 「ワークショップ」はどんなところでやっているの?

 では、「ワークショップ」はどんなところで、どのような場面で使われているなのでしょうか?今回は、実際に「ワークショップ」が活用されている場面や分野を事例を交え、ご紹介します。

 まず、「ワークショップ」が活用されている分野を大きく分けると、「アート系」、「まちづくり系」、「社会変革系」、「自然・環境系」、「教育・学習系」、「精神世界系」、「統合系」の7つに分けられる。(中野民夫著、岩波新書『ワークショップ』より)
 この中で、「アート系」は演劇やダンスなどで、よく「演劇ワークショップ」という形でイベントを行うところは多い。また、「社会変革系」とは、人権や平和といった個人よりも社会を変えていくことに重点を置いた分野でも使われている。なお、「統合系」は、いくつかテーマを併せて「ワークショップ」を行うもので、個人と社会の癒しと社会変革などがこれにあたる。

 私が「ワークショップ」を行う分野は、上の分け方で言うと「まちづくり系」、「自然・環境系」、「教育・学習系」にあたると思う。例えば、環境教育の仕事のなかで、環境リーダーを育てる講座を行う場合に、グループワークの中でよく「ワークショップ」を行う。グループでの活動計画を立てるところから始まり、活動計画を実施して評価をする。評価のあとは、今後の計画を練る作業を受講者にしてもらう。このように環境リーダーの講座では、講義だけリーダーを育てることは難しく、受講者に自ら行いたい活動を計画してもらい、実際に計画した活動をもとに次の活動につながるものをもって帰ってもらうことで、体験と知識を統合させ、市民活動などのリーダーを育てるために「ワークショップ」という手法を行っている。

 また、「まちづくり系」では、住民や行政、業者などのあらゆる立場の人がまちを作る主人公であるため、合意形成をしていくことが重要になる。その合意形成を図る過程で、「ワークショップ」を行うことがある。どういうものをまちに作り、どうデザインするかアイデアを出し合い、合意形成をしていき新たなまちを作るわけです。

 企業でも最近は、研修や会議の場で「ワークショップ」を取り入れるところが多い。新人研修・管理職研修などでは、組織で大切なチームワークや意思疎通を図るために取り入れられ、会議ではアイデアを出し会う場としてや参加者の双方向のコミュニケーションを図るために行われています。

 次回は、実際に私が行っている「ワークショップ」の進行や流れをご紹介します。

その3 「ワークショップ」の進行や流れはどう組み立てるの?

 さて、「ワークショップ」はどういう進行や流れで組み立てればいいのでしょうか? 今回は、私がやってきた「ワークショップ」を参考に、「ワークショップ」の進行や流れを組み立てる上で大切にする点をご紹介します。

 まず、「ワークショップ」を進行していく前に、何のために「ワークショップ」を開き、参加者がどうような状態になればよいのかはっきりねらいをもって準備しよう。「ワークショップ」も本番よりも企画や準備の段階でねらいを考え、どうような進行にするかで「ワークショップ」の成功のほとんどが決まる。「準備8割」とはまさにこのこと。
 つまり、主催者側のねらいに併せて、参加者の構成や会場などの雰囲気、あるいは参加者はどんなことを期待して「ワークショップ」に参加してくるのかを想定して、進行や流れを組み立てる必要がある。

 そして、何より参加者が楽しめるものかが大切なポイント。楽しそうなものでなければ、参加者の意欲も下がる。参加者1人1人が参加できる作業や1人1人の持っている特技などを生かしてあげる場を作ることで参加者も楽しくなり参加意欲を促すこともある。
 また、室内でじっとしているものであれば、進行のなかで、室内や外で体を動かすゲームや運動を取り入れると「ワークショップ」に変化がでてくる。「起承転結」も進行の上では、大切になるので、企画書や進行表を作って「ワークショップ」の流れを整理するとよい。

 次回は、実際の進行表を元に、もう少し詳しく「ワークショップ」の進行をご紹介します。

「ワークショップ」の様子

「ワークショップ」は準備の良し悪しで、本番の中身が左右される

その4 「ワークショップ」の流れをデザインする

 前回に引き続き「ワークショップ」の進行についてご紹介します。今回は、実際の「ワークショップ」の流れを時間の経過を軸にご紹介します。

 まず、「ワークショップ」の流れを「つかみ」、「本体」、「まとめ」という3つ括りでご紹介します。

 まず、「つかみ」ですが、これは本題(「ワークショップ」のねらいとなる作業や学習など)に入る前に参加者の「学びの準備」を促すものです。
 参加者が集まり「ワークショップ」が始まりますが、まず、「ワークショップ」の基本的なルールや簡単な流れを参加された方に紹介することが必要です。例えば、主催者の挨拶、施設の説明、一方的な講義ではないことを伝えたり休憩や終わりの時間についてインフォメーションすることなどです。
 続いて、何のために「ワークショップ」を開いたのか参加者に説明することも大切です。これは、何のために「ワークショップ」を開いているのか参加者(主催者も)に意識してもらい、流れが「ワークショップ」自体のねらいから外れないようにするためです。ただ、主催者側の個人的な思いを参加者に押し付けないように。
 「ワークショップ」自体のねらいが参加者と共有できたところで、今度は、参加者の緊張をほぐしてあげましょう。組織やグループ内の「ワークショップ」の場合では、参加者全員顔見知りということもありますが、それ以外の場合は、参加者全員が顔見知りということは滅多にないので、緊張をほぐすために自己紹介などをします。しかし、単に「○○です。よろしくお願いします。」というだけでは、緊張がとけにくく、面白みがありません。ここは、もう少しゲーム要素を取り入れてもいいでしょう。例えば、A4ぐらいの紙に4つスペースを作り、「名前と所属」、「出身・どこから来たのか」、「ニックネームと由来」、「ワークショップに期待すること(持ち帰りたいこと)」などを紙に書いてもらい、それぞれペアーを作り、お互いに2,3分で自己紹介をしてもらう。これをペアーをかえ、数回やれば場の雰囲気が少しは和むことでしょう。このように、参加者(もしくは主催者なども含め)の緊張をほぐすことを「アイスブレーク」、「アイスブレーキング」などと言われています(「アイスブレーク」については、今後このコーナーで詳しくご紹介する予定です)。

 「つかみ」の次は「本体」に入りますが、「本体」は、数分から数時間程度の活動(「アクティビティ」、「ワーク」、「エクササイズ」などと言われる)を通して、参加者を「ワークショップ」自体のねらいに近づけます。ある意味、この「本体」の部分は、「何でもできる」時間なのかもしれません。何かものを作ってもらったり、話あってもらったり、自然の中で何かを感じてもらったり、室内で体を使ったゲームをしたりとそれぞれです。ただ、あくまでも「参加者主体」であることを忘れてはいけません。
 また、「やりっぱなし」ではなく、活動後は補足の講義や活動内容や過程の「ふりかえり」や参加者同士が感じたことや感想を話あう「わかちあい」などを行うことをお勧めします。これらによってやった活動が何倍にも価値を持つものになる可能性があります。これらの活動をいくつも(1つの場合もありますが)繰り返すことで、参加者の学びが深まり、「ワークショップ」のねらいに近づいていきます。

 最後に、「本体」の後には、「まとめ」があります。「まとめ」は、「ワークショップ」全体の「まとめ」であって、前記の「本体」の個々の活動のまとめとは少し異なります。内容としては、前記の「ふりかえり」や「わかちあい」を「ワークショップ」全体を通して行い、参加者が「何を学んだのか」、「何を持ち帰りたいのか」など「ワークショップ」で得た成果を確認してもらいます。成果の確認をすることで、「ワークショップ」の後の生活の中ですべきことなどが意識されます。「ふりかえり」や「わかちあい」の方法はさまざまで、意見を述べてもらう方法やあらかじめ用意したシートに書いてもらう方法などがありますが、「わかちあい」は可能な限り参加者全員の感想や感じたことなどを拾ってあげると「ワークショップ」の多様性(感じ方は人それぞれということなど)がわかります。
 参加者の「ふりかえり」や「わかちあい」のほかにも、「ワークショップ」自体の「評価」をこの場ですると主催者側にも次につながる成果が得られます。簡単なアンケートならきっと参加者も協力してくれずはずです。

 次回は、「ワークショップ」を円滑に進めて行く「学びの促進者=ファシリテーター」の役割についてご紹介します。お楽しみに。
 

「ワークショップ」の流れの一例(出典:『森林環境教育プログラム事例集 ふれあい・まなび・つくる』)

「ワークショップ」の流れの一例
(出典:『森林環境教育プログラム事例集 ふれあい・まなび・つくる』)

その5 「ファシリテーター」ってどういう役割の人?

 今回は、「ワークショップ」で「学びの促進者」となる「ファシリテーター」の役割をご紹介します。

 「ファシリテーター」という言葉は、「促進する」、「助長する」という意味の英語の「ファシリテート」(ちなみに、名詞形は「ファシリテーション」です)からきています。したがって、その機能を担う人、つまりワークショップの「進行促進者」として「ファシリテーター」が登場してきます。

 しかし、単なる司会者ではなく、はたまた人の上に立て教える先生でもない。「ワークショップ」とい場において、参加者を支援し、促進する。また、参加者が心を開いて、自ら学びを得られるような場作りをする。時には、そそのかし、参加者の能力や特質を引き出し、参加者が動くまで待つこともある。
 こういうふうに、「ファシリテーター」の理想の姿を挙げていくときりがありませんが、ワークショップでは「ファシリテーター」が、大切にしなければいけないのは、参加者を思いやることです。参加者が本当に楽しんでいるのか、学んでいるのか、納得がいっているかなど、可能であれば参加者1人1人に、気を使うことが必要です。これは、ワークショップの主役が参加者であるため、人前で話す先生や司会者のように「ファシリテーター」が主役になっては、参加者の主体的な学びを生み出し難くなってしまうからです。
 しかし、かと言って「ファシリテーター」は、参加者任せにしていいかと言うとそうではありません。参加者がワークショップで行き着く目標(全体の場の最終成果)まで、脱線しないようにワークショップを進行させることが必要です。参加者の中でグループを作り、もしグループ内での議論や作業がその場の目指すべき姿から離れた時は、しかっり戻してあげることをします。ただ、「これは違いますので、こうしなさい」というのではなく、「いまの議論はテーマに合っていますか?」や「グループでやるべきことはシェアできていますか?」など、参加者が自ら脱線していることに気づいてもらうような投げかけをすることが大切です。

 また、ワークショップに限らず、「ファシリテーター」という役割がいろいろなところで注目をされはじめています。
 例えば、企業では会議を円滑に進めるためファシリテーターを司会者に代わって置いたり、行政やNPOなど異なる組織や団体が協働して仕事を進めるために仲介として立つ協働ファシリテーターがいたりと、活躍の場はさまざまです。
 これからは、きっと「ファシリテーター」という職業ができ、プロとして働く人が増えることでしょう。

 次回は、「ワークショップ」を取り巻く人(参加者、ファシリテーター、プロデューサーなど)の関係から、「ワークショップ」を捉えたいと思います。

●参考図書:『ファシリテーション革命』(中野民夫著、岩波アクティブ新書)
●関連団体:特定非営利活動法人 日本ファシリテーション協会

その6 「ワークショップ」を取り巻く人の役割について

 今回は、「ワークショップ」を取り巻く人(参加者、ファシリテーター、プロデューサーなど)の関係から、「ワークショップ」を捉えていきます。

 1つの「ワークショップ」を取り巻く人は、参加者、前回の第5回でご紹介した「ファシリテーター」のほか、「プロデューサー」の存在も忘れてはいけません。

 「プロデューサー」と言うと、大掛かりなイベントやテレビや演劇の「プロデューサー」を想像しがちですが、「ワークショップ」とい場における「プロデューサー」は、「企画者」や「脚本家」と言ったほうがしっくりいくかもしれません。
 第3回と第4回でご紹介したワークショップの企画や準備は、主催者が行なうことが多いのです(この時は、主催者=プロデューサーになります)が、時に「プロデューサー」を専門に置き、ワークショップを作ることもあります。
 「プロデューサー」の役割は、ワークショップを演劇に例えると分かりやすくなります。演劇での「役者」は「参加者」にあたり、役者の持ち味を生かす現場監督が「ファシリテーター」にあたります。そして、演劇の骨格を決める脚本家が「プロデューサー」にあたるわけです。
 場合によっては、「主催者」と「プロデューサー」と「ファシリテーター」を兼ねることがありますが、準備段階の「プロデューサー」という役割は、とても大切で、ここでワークショップの良し悪しが決まるといっても過言ではありません。

 「プロデューサー」、「ファシリテーター」、「参加者」の3者のコラボレーション(協働)によって、よいワークショップは作られ、参加者主体の学びの場が動き、新しい学びを生みます。
 「プロデューサー」という存在は、ワークショップ本体の現場では、ほとんど現れてこない役割なのですが、実はワークショップのほとんどを決めてしまうほど大変な役割なのです。

 次回は、「ワークショップ」の場で役立つ「7つ道具」をご紹介します。お楽しみに!

その1 「旅したくなる時はどんな時?」

 みなさんは、今までどれくらいの旅をしたことがありますか?
旅といっても、数ヶ月以上に及ぶ長期の旅もあれば、日帰りの旅もある。
また、海外へ一人旅や仲間とドライブという旅まで人それぞれで、数えたらき りがありません。

 でも、どうして私たちは旅をしたくなるのでしょうか?
劇作家・演出家の平田オリザさんは若い頃の旅をまとめた本の中で、人から「なぜ旅をするのか?」と尋ねられると、「何故、理由なく旅に出てはいけないので すか?」と答えたそうです。
 旅をする理由も、人それぞれだと思いますが、人が旅をする理由にはいくつ かのパターンがあると思います。
(もちろん、私が勝手に思っている分類です。特に根拠はありません。)

1.日常の生活(仕事や人間関係のしがらみなど)からかけ離れた所に行きたいという、ちょっと「逃げ」な理由から
2.旅を共にする人(友達や家族など)と楽しい時間を過すため
3.体を休めたり、精神的なリラックスを求めたり、おいしいものを食べたりする欲求を満たすため
4.知らない土地や人、文化などに触れ、新しい知識や体験、出会いを得るため
5.自転車で日本一周や秘境への探検など、自分の可能性をチャレンジするため
6.仕事の出張や身の上の問題など必要に迫られ、旅をしなければいけないから
7.特に理由が見当たらないが、ただなんとなく旅したかったから

 このうちどれか(複数もあり)に当てはまると思います。

 旅をしたくなった時、改めて「何で旅しようと思ったのか」、この上の分類 で考えてみると面白いと思います。結構、旅の計画は、意識していないで漠然 と思い立つものですが、「いまこんな気持ちで旅したいんだ」と自分で旅の理 由を意識し「気づく」ことで、旅の捉え方も変わってきます。

 例えば、私が自転車で日本一周をしようと思った理由は、上の分類で、1、4、 5でした。なので、例えば1であれば、旅の最中は、旅の前の日常生活を省み ながら、旅で得たことを旅の後の生活にどう活かして、よい方向に変えていく か意識をしていました。

 そうすることで、旅で起こる色々な出来事に対して、違った切り口で旅を捉 えることができると思います。道中、ホームシックになり、もう帰りたくなっ たとき、出発前の気持ちを整理すると寂しくなくなることもあると思います。

 「旅したくなった」という時から、実はもう旅は始まっているのかもしれま せんね。

その2 「旅の計画書は書いていますか?」

 「旅がしたい!」と思い立った時、自然と頭の中で、「あんなところに行っ て、こんなことをして、泊まるところは・・・」とイメージを膨らませていき ます。しかし、案外その時に、「旅の計画書」を書いてないことが多く、いざ 旅に出た時に、「そういえばここも行きたかったんだよな」とか、「お土産を 買うお金がちょっと足りない!」なんてことになったりしていませんか?
 「旅に計画書なんて必要なの?」という方も多いと思いますが、結構、計画 書は準備の段階で大切になってきます。準備を確かなものにして、旅のトラブ ルを防ぐことにもなりますし、あとあと残るものとして思い出にもなります。

 計画書にまとめるのは、俗に言う「5W2H」の項目です。項目をそれぞれ紹 介しますと次のようになります。

 「What」は、旅で何をしたいかという旅の中身です。例えば、温泉に浸かり に行くと旅や富士山に登りに行く旅など、どんな旅をするかということです。

 「Why」は、何のためにその旅をするのかという目的です。文章で書いてみ ると、はっきりしてきます。私たちが普段、旅するときに案外ここが抜けてい ます。目的がはっきりさせ、旅先での行動を注意していないと、旅から帰って きて「そういえば、なんのために旅に行ったんだっけ?」と思い出すことに成 りかねません。例えば、日ごろの疲れを取るために温泉に浸かりに行ったのに、 温泉はほどほどで、お土産を買うためにお店廻りをしてしまい、疲れて帰って きたといことはありませんか?疲れを取る旅なら、極力旅先では体を休めるこ とを心がけましょう。

 「When」は、いつ旅をするのかという旅をする日時を示す場合と「○泊○日」 のように旅をする期間を示す場合があります。学生や社会人の人であれば、休 みに旅をする場合が多いのでおのずと休みの期間でできる旅のスケジュールに なります(場合によっては、ずる休みや有給休暇、休職ということもあります が・・・)。また、旅先のお祭りを見に行くなど、その時その場でしか味わえ ない旅であるときも、スケジュールが決まってくると思います。

 「Where」は、旅する場所です。これは、旅の中身や目的と関係してくると 思います。中身や目的がはっきりすると、具体的な場所も決まることもありま す。例えば、国内の世界遺産のうち、自然の世界遺産を見に行く旅とするなら ば、鹿児島県の屋久島や秋田県・青森県の白神山地などになる。

 「Who」は、誰と旅するかということですが、もちろん自分ひとりの「一人 旅」もあります。

 「How much」は、旅の予算のことです。どこから旅費を捻出して、どこでい くら使うのかあらかじめ考える。旅先でお金がなくなり帰れなくなったら大変 ですので、ちゃんとお金のプランニングもしましょう。

 「How」は、主に旅先まで行く交通手段のことです。これは、日程と行き先 に左右されると思います。特に海外の場合、帰りの飛行機がフィクスで取って いると飛行機の便に間に合わなければ、せっかくのチケットを無駄にしてしま います。

 あとは、旅に名前をつけると、よりその旅に行くのが待ち遠しくなります。 「祝、阪神優勝!大阪食い倒れツアー」、「日本一周、チャリの旅」などタイ トルをつけると、ちょっとした旅も面白さを増してきます。

 これらの項目を書いていくと、あなただけの「旅の計画書」が出来上がりま す。この計画書を旅を共にする人に見せたりできますし、旅の直前にその旅で 得たいことをチェックすることもできます。
 みなさんも今度、旅の前に「旅の計画書」を書いてみてはいかがでしょうか?

 なお、「旅の計画書」フォームのサンプルと記入例を作ってみました。ウェブサイトからダウンロードできますので、よかったら参考にしてみてくだ さい。(ダウンロードには、Adobe社の「acrobat reader」が必要です。)
●「旅の計画書」フォームサンプル
http://www.j-tabikobo.com/kouza/projectsheet-form.pdf
●「旅の計画書」記入例(私の「日本一周、チャリの旅」の計画書です)
http://www.j-tabikobo.com/kouza/projectsheet-sample.pdf

その3 「旅先の情報を得ることとその情報を正しく判断すること」

 「さー、行きたいところは決まったから、行く場所をまず知ろう!」と思っ たら、みなさんはどうしますか?
 多くの方は、旅先のガイドブック(国内なら「○るぶ」、海外なら「○○の 歩き方」など)を買い、情報を得ることだと思います。また、最近ではインタ ーネット環境が整備され、ウェブで現地の情報を得ることも可能になりました。  しかし、これらの情報は、旅先の一部のことしか扱っていないことや時には 誤った情報が入っていることがあります。
 特に、海外の場合は、いくらグローバル社会になったといっても、私たちの 日本人にとっては文化も歴史も違う異国です。その国のことを知っているよう で、案外知らないことはたくさんあります。

 ガイドブックやウェブで情報を得ることは、大変参考になるのですが、一番 有効な情報の得かたとしては、普段から新聞やテレビなどで、その土地の情報 を得ることだと思います。特に、政治や歴史・文化といったことを得ておくこ とが、大切です。海外では、政治や歴史的な絡みから、私たち日本人にとって そこは、快適に旅ができる場所かどうかを正しく判断しないと、自分の命に関 わることがあります。ありとあらゆる情報が駆け巡っている現代では、情報を 自ら正しく判断することは、大変難しいのですが、こればっかりは日ごろの訓 練しかありません。
 また、そのほかの情報の得かたとしては、現地に暮らしている(暮らしてい た)人から情報を得ることも有効だと思います。やはり長く暮らしていた人の 話は、信憑性や説得力があります。機会があれば、旅に行く前に話を聴いて、 情報を得ることが大切です。
 旅先に行って、現地で情報を得ることもありますが、やはり準備の段階で、 いかに多くの情報を得て、それを正しく判断・整理することが旅を楽しむ第一 歩ではないでしょうか?

その4 「旅のスケジューリングには余裕を持たせる」

 「旅の計画書」(コラムその2を参照)をもとに、旅先の情報を集めた後は、もう少し詳しく旅先での日程表を書くとよ いでしょう。特に、海外への旅の場合は、出国・帰国の飛行機の時間に合わせ てスケジューリングしないと、帰国便に乗り遅れ、日本に帰れなくなる可能性 もでてきます。

 海外への旅に関わらず、旅には「余裕」を持ったスケジューリングが必要で す。でもこれがなかなか難しい・・・。「ここにもあそこにも行きたい」と思 いちょっとタイトなスケジュールにすると、目的地に着いた途端、次の目的地 に行かなければならないという事態になってしまう。

 そこで、もう一度「旅の計画書」を見直して、なんのために旅に行くのか考 え、スケジューリングをしていくといいかもしれません。
例えば、「この旅でここだけは訪れたい」とか「これだけは体験しておきたい」 といういうものを最優先して、その目的が達成されたあとに、時間的に余裕が あるときは、「おまけ的」に次に行きたいところに行く、したい体験などをす るようにスケジューリングします。あくまでも「ここだけは!」「これだけは! 」というものを大切にし、ほかのことは「今度の旅で達成する!」という割り 切りが必要なのです。

 海外への旅の場合は、旅先の環境が日本とは違いますので、その国に着いた その日とできれば次の日は、その国の環境に慣れることと情報集めのために費 やし、最低でも到着後2日目から行動を開始するスケジュールにしましょう。2 日目からは、「旅の計画書」に書いておいた「旅の目的」を達成する場所に行 ったり、体験したりするようにしましょう。
 また、帰国のことも考えると、帰国の日はもちろんのことその前日も、帰国 の便が出る空港近くのまちで、お土産を買ったり、帰国の準備をしたりするよ うにしましょう。タイトにスケジューリングすると日本に帰れなくなったり、 思わぬトラブルに遭い、慌ててしまうことになりかねません。
(もちろん何度も訪れている国・地域であれば、到着後即行動、帰国の便の日 に空港近くのまちに着くスケジュールでもOKでしょう)

 旅のスケジュールは、びっしり埋まっていた方が良い気がしますが、実は逆 に「ここだけは!」「これだけは!」という目的をハイライトさせるためにも、 あえて空白の時間を作ることが大切なのです。

その5 「旅先での危機管理について」

 昨年、相次いでイラクでの邦人誘拐事件が起きました。幸い、最悪の事態は避けられ ましたが、残念ながらいまイラクは戦争地帯であり、かなり危険な国となって います。
 テレビやインターネットでの情報網が、しっかりしてきたので、最近では、 タイムリーに世界各国の情報を得ることができます。
 しかし、特に海外への旅となると旅先である国の治安状況や政治などもしっ かり把握しておくことが大切にあります。

 イラクやパレスチナに代表される紛争・戦争地域であるかどうか、スリや犯 罪の多く治安が悪いかどうかなど、事前に調べておくことをお勧めします。
また、アメリカでのテロ以降、治安がいいと思われている国でも、政治的な関 係で、一転、危険な国となりうるので、世界のニュースなどは、日ごろからチ ェックが必要です。

 外務省のホームページには、各国の危険地域情報などが載っているサイト 「海外安全ホームページ」があります。一応チェックしておくとよいでしょう。
http://www.pubanzen.mofa.go.jp/index.html

その6 「旅もPDCAのサイクル」

 みなさんは、「PDCA」という言葉を聞いたことがありますか? 教育の現場や体験活動の場で、よく「PDCA」という言葉が出てきます。
 この「PDCA」は、それぞれ「Plan:計画」→「Do:実行」→「C heck:評価」→「Action:再試行」の頭文字で、この一巡のサイク ルを表しています。

 つまり、旅も計画をして、実際に旅してみて、旅の写真や日記などで旅を振 り返り、再び旅の計画を立てるという「PDCA」のサイクルなのです。旅で、 大事なのが、「Do」と「Check」の部分です。
 「Do」は、旅先でのことを表すと思いますが、この「Do」の中にも「P DCA」という小さなサイクルがたくさん含まれています。旅先で計画とは違 った事態になった時、急きょその場でルートや宿を決め、実際にそれで行動し てみる。「このルートは失敗したな」とか「民宿はやっぱりよかったな」とい う実際にとった行動の評価をし、次にルートや宿選びの参考にする。みなさん も、気づかないうちに旅先でもいくつもの「PDCA」を実は、体験していま す。
 また、「Check」の部分は、どこに当たるかといいますと、旅先から帰 ってきて後日、旅先の写真を眺め、「いい人に出会ったな」とか「素晴らしい 風景を見られてよかったな」と思うことでも十分に「Check」の意味があ ります。また、ちょっと時間があるときは、今度同じような旅をするときには、 「こういうことをしよう」とか「これだけは止めておこう」という旅の振り返 りと共に次の旅への心がけを出しておくと、次の旅の計画がさらに、楽しいも のになることでしょう。

 みなさんも、旅の「PDCA」のサイクルを少し意識して、計画を立てたり、 いままでの旅を振り返ってみませんか?

その7 「ひとり旅の魅力について」

 私は、人の短い人生の中で、「ひとり旅」というのは、特別なように感じて います。

 学生の頃の「ひとり旅」を経験し、旅先での人の温かさと共に、「自分の成 長」というものを実感していました。それは、誰にも頼らず直面する困難に対 処しなければいけない場面が多くあり、それを何とか乗り切ったからだと思い ます。
 例えば、普段は家族や誰かが作ってくれた食事を、旅先では自分で作るとい う些細なことから、人によっては、生命の危機にさらされた危機一髪の場面で、 あの判断を自分でしたから困難を乗り越え、いまを生きているというという 「ひとり旅」もあるはずです。

 でも、旅であろうがなかろうが、直面する困難の壁がどうであれ、自分で困 難を乗り越えようと何かをすることは、自分の可能性を信じることにつながる と思います。「ひとり旅」でも自分を信じることが大きな力になります。
 寂しくても、辛くても、自分の可能性を信じてした「ひとり旅」は、きっと 他人に誇れる「宝物」になります。また、「ひとり旅」は、普段気づきにくい 自分の性格や「本当の自分」に気づくきっかけを与えてくれると思います。
 そう、「ひとり旅」には、多くの魅力が溢れています。

    (「ひとり旅のつくり方講座(海外編)」の報告書のあとがきより)

その8 「旅の本がいっぱい!『旅の図書館』を活用しよう」

 旅に関する本は、巷にたくさんあります。ガイドブックにはじまり、旅行記、 地図、鉄道の時候表など。そんな旅に関する本を集めた「旅の図書館」がある ことをみなさんはご存知でしょうか?

 旅の老舗会社とえば、「JTB」ですが、その「JTB」がこの「旅の図書館」を 運営しています。図書館の場所は、東京駅八重洲口北徒歩1分にあるビルの一 室。そんなに広くはないのですが、どこの図書館よりも旅に関する本の在庫は 多く、世界や日本各地のガイドブック・紀行・地図・統計資料などが豊富です。

 旅についてのことを調べたくなった時や、東京でちょっとした時間潰しに立 ち寄ってみてはいかがでしょうか?

「旅の図書館」のホームページアドレス
http://library.jtb.or.jp/

その9 「スローな旅をしてみよう!」

 夏休みや春休みなど学生が長期の休暇の時期になるとJRの「青春18きっぷ」 が発売されます。「青春18きっぷ」は、5枚綴りの切符で、1枚2,300円相当 で、日本全国のJR線(普通・快速電車に限る)が1日乗り放題になる便利な切 符です。私もこの切符が発売される時期に限って良く電車の旅をしますが、考 えてみれば、電車の旅と自動車の旅を比べると旅の雰囲気はかなり違ってきま す。

 旅の行き先は同じでも、移動手段(つまり、電車、自動車、自転車、徒歩な ど目的地に行くまでに使う乗り物や体の使い方)によって、旅の印象はもとよ り、見る風景や出会う人、さらに時間の感覚や疲労度までそれぞれ異なります。
 一般的に、現代の日本人は旅の移動時間が短い旅に慣れているので、自動車、 飛行機、新幹線などのかなり速い(と言っても何を基準で速いと言えるのか分 かりませんが・・・)移動手段に頼りきっています。
 しかし、スローな旅の代名詞的な鈍行電車の旅や人力の旅(自転車や徒歩の 旅)も忘れてはいけません。これらの旅には、例え同じ目的地・ルートであっ ても、普段速い移動手段の旅で見過ごしがちな風景、違った時間の流れや雰囲 気を感じることがあると思います。気になった風景を見たときに途中下車した りちょっと立ち止まったり、出会った人とじっくり話をしてみたり(もちろん、 時間の過し方や何をするかは人によって自由ですが)と旅に広がりがでてきま す。

 「あの旅はどんな旅だったっけ?」とか「旅の思い出はあんまりないな・・・ 」といつも旅の印象が薄く、面白みがないとお感じの方は、是非スローな旅で、 いつもと違う旅をしてみてはいかがでしょうか。

その10 「あなたは旅日記を人に見せていますか?

 あなたは、旅をした時、日記を書きますか?

 普段日記を書かない人も、ちょっと遠く(海外)に旅した時や長期の旅の時 に日記を書いたことがある人は多いと思います。(私も普段は日記を書きませ んが、長期の旅や海外への旅行の時は、できるだけ日記を書いています)

 旅日記は、もちろん「日記」ですので、「旅をしている日々の記録」を綴り ますが、旅日記にどんなものを書くかは、その人次第。
 シンプルに1日の出来事やスケジュール、行き先や感想などを文字で書いて いく旅日記もあれば、印象に残っている場面や風景を絵で描いてみるとか、旅 日記には、その人のスタイルや個性も自然と現れてきます。

 現在では、携帯電話やパソコンが手軽に、「旅のお供」となっているので、 メールやホームページなどに送信して、旅での思い出の記録を残すこともあり ますが、やっぱり、アナログなノートなどに自分の手で記録を書いていくをオ ススメします。

 旅日記も、普段の日記同様、その人自身の思いや旅先での出来事、見たこと のことなどを書きますので、基本的に旅をした人自身が後で読み返し、旅での 出来事などを思いだすために書いておきます。「あの時、あそこに行っていた なぁ」とか「こんなこと思っていたんだ」、「旅先で出会った、この人は今ど うしているかなぁ」など、のちのち旅の思い出にふけるために、やっぱり旅日 記があれば便利です。

 しかし、書いた後、土産話的に友達などに読んでもらうこと(特に最近はホ ームページで旅日記を公開する人もたくさんいます)も面白いものです。
 人によっては、「そんなの恥ずかしい・・・」と思うかもしれませんが、こ れが結構、意外な発見があるのです。あなたの旅日記を見た友達などは、「こ んなところに行っていたの」とか「こんなことを思っていたの」など、自分の 新たな一面を発見してもらうことがあったり、逆に、「私もここに行ったよ」 とか「こんなこともできるのすごいね」など、あなたの旅の話も広がります。

 人が旅をする目的やスタイル、行き先が違うように、旅日記にも、人それぞ れの形や記録の残し方があります。
 あなたは、旅をした時、どんな旅日記を書きますか?もし、旅日記を書いた なら、恥ずかしがらずに友達などに旅日記を見せてみましょう!自分の意外な 一面が発見できるかもしれませんよ!

その11 「カメラはアナログ派?デジタル派?」

 旅をしたら旅先の風景や仲間をカメラで撮り、写真に思い出を残したい。そ んなことが当たり前のように、旅にカメラはなくてはなりません。

 ここ数年で、一眼レフや使い捨てカメラに代表されるフィルムで残すアナロ グカメラにとって代わって、デジタルカメラが主流となってきています。
 デジタルカメラには、なんといってもフィルムを使用しない上に、何度でも 取り直しが出来るので失敗しにくく、フィルム代がかからない、軽いなどのメ リットがあります。

 しかし、大事なのはデジカメで撮った写真をどう残すかで、出力(プリント) では、デジタルに頼るのではなく、あえてアナログに頼るのも一つの手です。 というのもホームページに公開する場合などパソコンなどデジタルでの使用が 主であれば、デジカメは大変便利ですが、自分でプリントするとなかなかフィ ルムのような繊細さが出ません。

 そこで、富士フィルムなどの写真現像屋さんがやっている、デジカメのデー タからフィルムと同じような形でプリントしてもらうと、見た目ではフィルム で撮ったのと変わらないくらいの写真に仕上がり、また保存もききます。
 画像のデータさえあれば、お店できれいな写真で出来上がりますので、旅で の思い出の写真を一生ものとして、残しておきましょう!

その12 「自分のしてきた旅を人に伝えること」

 「どこでどんな旅してきたの?」と旅先から帰ってきた時や昔した旅の話を 人に話した時、こんなことを尋ねられたことがありませんか?

 旅先での楽しいできごとや感動したこと・風景、現地の人との出会いなど、 自分のしてきた旅を人に語るのはとても楽しく、時間さえあればいくらでも話 せそうですが、それを多くの人に伝えようとするのは、なかなか難しいもので す。
 昔の人は、旅日記や自分の記憶などをもとに紀行文など本で伝えていました が、近年、情報化の発達で、ホームページ(ブログ)などを使い、労力やお金 を掛けずに、世界の人に自分が体験した旅を伝えることができます。
 かくいう私も、私が体験してきた旅を多くの人に伝えようと、ホームページ やメールマガジンなどを使って発信をしています。
 でも、私を含め、旅をした人はどうして多くの人に自分が体験した旅の話を 伝えたいと思うのでしょうか?

 考えてみれば、人間は、とても素晴らしい生き物です。本に代表されるよう に、自分が体験していなくても、文字や映像、さらに耳から、あたかも自分が 旅をしたかのように身を置けることができます。
 つまり、私たちは、自分が旅に行っていなくても、他人が旅したことを書い た本や人の話などから、旅の疑似体験ができるのです。少し大げさに言うと、 疑似体験を通して、時間的・空間的制約を越え、いくらでも自分の思い描く旅 ができるのです。

 人に自分の旅を伝えたい気持ちと、人の旅の話を聴いたりすることは、密接 に関係しています。人の旅の話を聴いて、自分もそんな旅をしてみたいという 気持ちがどこかであり、逆に自分の旅の話をする時は、人に自分の体験を共有 してほしい気持ちがどこかにあります。

 旅を共にしていなくても、旅の体験を多くの人と分かち合う。それは、人間 が本能的に持っている、国境や世代を越えた人とのつながりをつくる立派なコ ミュニケーションなのです。

その13 「旅にはなくてはならない地図のいろいろ」

 旅をする時、特に自分の家からどう行くのかや旅先に何があるか調べる時に、 やはり地図は欠かせません。

 地図は、古くから旅になくてはならない存在として、私たちの生活にも役に 立っているものです。地図は、紙の上に地形や地名さらにお店や観光地などを 示すアイコンが書かれているのが一般的です。地図を眺めているいるだけでも、 「ここに行きたいな」とか「昔ここに行ったな」など、旅のイメージが膨らみ ます。
 さらに、IT化が進んだ現在では、パソコンや携帯電話で地図を見ることや、 GPS(衛星システム)を使ったカーナビなど、地図もさまざまなものが出てき ました。また、全世界の衛星写真が無料でダウンロードでき、パソコンで眺め ることができるものまで登場しています。(以下のサイトからダウンロードで きます。倍率や角度も変えられ、都市部であれば自分の家まで確認できます。)
http://earth.google.com/download-earth.html

 地図のかたちはいろいろありますが、旅をする前、旅先、更に旅を思い出す 道具として、地図を活用することは、とても面白く、新たな発見につながるこ ともあります。
 お気に入りの地図探し、その地図で見つけた旅をしてみませんか?
もちろん、地図の中の(イメージ世界の)旅もいいものですよ。

その14 「旅にはなくてはならない地図のいろいろ その2」

 このコラムで、ご紹介した全世界の衛星写真が見られる「Google Earth」の姉妹サイトとして、「Google ローカル」というサイトがあります。こちらも「Google Earth」同様に、普通の地図以外に、かなり細かい衛星写真を見ることができますが、どちらかというと国内専門のサイトです。
 さらに、凄いのは、検索機能がついていますので、地名とキーワードを入れることでさらに活用の度合いが増します。例えば、「鎌倉」と「寺」というキーワードを入れてみて、地図を「サテライト(衛星写真)」にすると、鎌倉のいくつかのお寺に印がついた衛星写真が表示されます。さらに、お寺の連絡先やホームページのリンクも表示される優れものです。

 地図のみならず、このサイトで旅先の情報収集は、ほとんど済んでしまう気がします。国内の旅行を計画する前に、ここのサイトをぜひ活用してみてはいかがでしょうか?

第1回 アメリカ西部の国立公園への憧れ

 大学2年の夏に、65日間約6,000kmに及ぶ日本一周の旅を終えた私は、いつも と変わらない大学生活を送っていた。
 しかし、チャリの旅に味を占めた私は、次の行き先をすでに日本からアメリ カと決めていた。なぜ、アメリカであったかというと、ただ英語が通じる国で、 他の言葉を勉強する必要がなかったからという単純な理由からであった。
 行き先をアメリカと決めたのは、日本一周をした翌年(つまり1999年)の正 月頃だったと思う。とりあえず、英語が通じるところということで、決めたが はっきりいって向こうのネイティブの人と会話ができるような自信はなかった ので、ラジオ放送の英会話を自習し始めた。

 そうこうしているうちに2月になり春休みになった。そんな中、ボランティ ア活動をしていたYMCAの職員が、アメリカの国立公園のツアーガイド研修に向 かうということを聴き付けた。なんでも、ユネスコの世界遺産に登録され、世 界で初めての国立公園となったイエローストーン国立公園でガイドの研修をす るということ。このとき初めて、アメリカの国立公園を知った。

 その彼女の話を聞いている内に、実際にイエローストーンやほかの国立公園 に行ってみたくなった。しかし、アメリカの国立公園の情報についてはほとん ど無知であったので、まずは「○○の歩き方」のアメリカの国立公園編を本屋 で買うことにした。本屋やインターネットで調べていくうちに、一段とアメリ カの国立公園への憧れが強くなっていった。
 イエローストーンなどのアメリカの国立公園は、独特の公園管理システムを 持っていて、特にレンジャーと呼ばれる公園職員の魅力はすばらしい。公園内 の動植物の生態系や地形、さらに歴史や文化を分かりやすく教えてくれるプロ グラムを公園内で提供してくれる。そんな、ことも調べていくうちにわかって きた。

 しかし、実際、海外旅行をしたことがない私にとって、アメリカの旅はかな りのチャレンジだった。まず、パスポートをとり、アメリカの地図を買い、自 転車で走るルートを決めたり、いろいろなことが何もかも初めてで、未知の世 界だった。
 アメリカの道路はどんなものか、道路の標識はどういうものか、泊まる場所 はあるのか、野宿はできるのか、1日どれくらい走れるのか、などまったく手 探りで、情報かき集め、調べた。

 結果、アメリカ西海岸でも北にある都市で、比較的安全なシアトルから入り、 そこから東へ向かい、ロッキー山脈にぶつかったら、南下し、アメリカを縦断 するように、ラスベガスまで自転車で走るというルートに決めた。
 ルートが決まり、早速、旅行代理店のH.○.S.でチケットを買った。しかし、 チケットのあまりの高さ(ラスベガスからの帰路が、ロサンゼルス経由しかな く、合計で約17万円)に面を食らったが、期間やルートを変えることはしたく はなかったので、なくなく妥協した。

 チケットをとってからは、とても時間が早く感じられた。7月に入り、大学 の夏休み前のテストやレポート課題の時期となり、旅の準備がままならないと きもあったが、なんとか、テストや課題を片付け、アメリカへの出発前日とな った。アメリカへの旅立つ前日は、日本一周の時とは、まったく違い、緊張も せず、夜はぐっすり眠れた。

 1999年7月27日、こうして、私はアメリカ西部の旅に向かう日を迎えたのだ った。


<第2回へつづく・・・>

第2回 アメリカ西部の旅の始まりはシアトルのまちから

 アメリカ西部への出発の日、1999年7月27日、朝7時半に起きた。
いつもと変わらない朝だった。今日、アメリカに行くという緊迫感がない。 何気なく、大きな荷物をザックで背負い、9時に家を出た。
これからの51日間どうのなるのだろうか・・・まったく予想ができない。

 自宅からいつも乗り慣れている路線バスに乗り、横浜まで。横浜からは、こ れまたバス(バスといってもYCAT発のリムジンバス)で成田に向かった。
成田には、ちょうど昼ごろ着いた。成田に着いてから、やっと緊張してきた。
ターミナルで昼食をとり、13時にチケット受け取ってから、15:55発の便を待 つことになった。成田は、国際空港なので、もちろん外国人もたくさんいる。
しかし、外国の人を見ると、これから日本を出ようとしているのにすでに海外 にいるような何か不思議な感覚になる。

 搭乗手続きを済ませ15:30に飛行機に乗りはじめたが、私の席は、もちろん 安いエコノミーだったのだが、何やらブッキングが発生したようで、ビジネス クラスの席になった。「ラッキー」と思い飛行機に乗り込んだが、どこがどう エコノミーと違うのかよく分からなかった。

 16:30ごろ飛行機は、成田を離陸した。隣の席には、アメリカ人の女の子が 座っていたが、英語を話すことにまだ慣れていなく緊張のため、軽い挨拶程度 で済ませてしまった。
 離陸後、2時間もしないぐらいで、夕食となり、夕食後、少しアルコールも 手伝い、眠りについた。

 夜が明け、次の日・・・と言いたいところだが、太平洋上の日付変更線をま たいでいるので、再び7月27日の朝を迎えた。1日が48時間になったようで何か 得した気分だが、まったく寝付くことができず朝を迎えていた。
 朝からボリューム満天の食事が出て大変だったが、無事に8:40、シアトル・ タコマ空港に着いた。着いて早々、入国審査があったが、サングラスにガムを 噛む、いかにもアメリカ人らしい人が担当の人となった。初海外で心配してい た、入国審査でのやりとりは特になく、すんなり終わった。

 荷物を受け取り、早速、シアトルの中心部に・・・と思ったが、中心部に向 かうバスに乗るため、手持ちのトラベラーズチェックを両替して、現金化する 必要があった。仕方なく、空港で両替を頼んだが、これが誤算で、かなりの割 合で手数料が引かれ、ほとんど現金のドル券は手元に戻らなかった。
(あとで、分かったのだが、売店なので、普通にトラベラーズチェックで買い 物が出来たので、何か買い、お釣りを現金でもらえばよかったのだ)
 要領が悪いながらも、ドル券を手にした私は、シアトルの中心部に向かうバ スに乗り、まず宿となるユースホステルを目指した。某ガイドブックを見なが ら、ユースに一番近いところでバスを降り、そこから歩きユースに着いた。ユ ースに泊まる手続きは、すんなり行き、荷物を置いてから、シアトルのまちを 歩くことにした。

 まずは、REIという、一時期日本にもお店があった、シアトルで一番大きい アウトドアのお店に向かった。今回、実は自転車を日本から持ってきていなか ったので、ほかの道具と合わせて、このREIで買う予定でいた。お店は、アメ リカでも5本の指にも入るほどの大きさを誇り、入口ではお店の吹き抜けを活 用した、ロッククライミングの練習用の岩がお客を迎える。
 一度、店内を見回した後、自転車をじっくり品定めして、K2(スキー板など 有名なメーカー)のMTB(マウンテンバイク)をサイドバッグや水筒などの道 具と合わせて買った。自転車は、タックスも含め、425ドル(当時のレートで 約5万円)とやや高め、だったが新品には変わりはなく、車体は見た目より軽 く、走りも軽い。

 買った早々、ユースまでの道のりを、少しシアトルのまちを見ながら、チャ リを走らせた。夕食に、マクドナルドのビックマックを食べ、初日ということ もあり、早めに布団に入った。
 しかし、夜中の2時ごろユースのスタッフの人に起された。なんでも、チャ リの起き場所が悪かったらしく、移動させろということだった。
 そんなこともあり、まったく寝付けず、旅の2日目を迎えた。

 旅の2日目は、チャリのテスト走行とアメリカの生活に馴染むため、1日シア トルの観光にあてた。シアトルは、今ではイチローなどが活躍する大リーグの マリナーズの本拠地で、日本人にも住みやすいまちとして有名だ。
 この年、ちょうど大魔神こと佐々木投手がマリナーズに移籍した年だったの で、野球観戦はしないまでも、野球場だけでも見ようと思い、セーフィコフィ ールドを覗いた。スタンドには入れなかったが、ちょうどアメフトの練習をし ていたようで、日本とはスタジアムの作りが違うなと感じた。
(実際に、シアトルではキングスドームというドーム球場を使っていたようだ が、屋外のスタジアムの人気が高く、ドームを潰してまでこのスタジアムを作 ったほど、アメリカ人の野球熱は高い)

 スタジアムを見た後は、パイオニアスクエアを見て、日本でも最近は珍しく なくなったスターバックスコーヒーのお店(シアトル発祥のカフェだからちゃ んとシアトルに一号店がある)で、ベーグルにアイスコーヒーのブランチをと る。
 食事の後は、港の方に行き、市場や面白い形のタワーを見て、中心部をほと んど見てまわり、ユースに戻った。

 夕食は、途中買ったパンで済ましたが、食後、ユースの共有スペースに行く と日本人の女性がいた。彼女から先に話しかけれた。なんでも、サンフランシ スコに住んでいるようで、シアトルから近い、オリンピック山に行こうとして いるようだった。アメリカについてからシアトルの空港でいた、観光案内所の あばさん以来、日本人二人目との会話となった。
 どれくらい、彼女と話したのか分からないが、話が落ち着いたところで、彼 女と別れ、挨拶をした。

 その後、しばらくその場でぼーとしていたら、アジア系の男の人に英語で話 しかけられた。話してみると、彼は韓国人でリーという学生で、カナダのバン クーバーに3ヶ月滞在したあと、自転車でシアトルに来たらしい。彼とは、初 めて英語での長い会話となった。初めは、なかなか彼の英語が聞き取れず、苦 労したが、話しているうちに慣れてきて、少しまともな会話が出来るようにな った。しかし、彼の英語はしっかりしていて、私もそうだが、日本人の学生よ りも韓国人の学生のほうが英語を話す力は、あるようだ。
 結局、彼との話で盛り上がり、この日、深夜の1時にベッドに入った。


●1日目(日本時間) 8/27、晴れ
 自宅(横浜)→成田→(機内泊)
●1日目(アメリカ西部時間)8/27、晴れ
 (機内泊)→シアトル・タコマ空港→シアトル市街
●2日目 8/28、晴れ
 シアトル市街観光


<第3回へつづく・・・>

REIのお店の中のクライミングウォール(シアトル市街、1999年7月27日) 新しく買ったチャリとユースホステル(シアトル市街、1999年7月27日)

REIのお店<左>とチャリをユースホステル前に<右>(シアトル市街)

シアトル港前の駅(シアトル市街、1999年7月28日) シアトルの市場(シアトル市街、1999年7月28日)

シアトル港前の駅<左>とシアトルの市場<右>(シアトル市街)

第3回 最初の難所をめざして

 前日、シアトルのユースホステルで韓国の青年と深夜まで話していたので、 翌日10時近くまで寝てしまった。私は起きて、少し慌てた感じで支度をして、 11時にユースホステルを出た。
 シアトルのまちに着いてから、3日目の朝、ついに西部の旅の出発となった。 しかし、この日は昨日までの天気とはうって変わって寒い上、小雨が降ってい た。私は、宿を出てから、一旦北上し、エベレットというまちからロッキー山 脈まで東に向かうコースをとった。

 シアトルのまちを離れ、初めて郊外の道路に出る。日本の道路と違い、路側 帯が広く、自転車が通れるスペースは広い。また、シアトルからある程度郊外 に行ったところでも、自転車専用道路があり、とても走りやすい。
 ただ、アメリカの道路にはいくつか種類があり、日本で言う高速道路にあた る「インターステイトハイウェイ」は、料金が取られない上、片側3車線程度 で道路が広いため、車は平気で100mph(約160km/h)でとばす。そのため、原 則自転車は走行禁止となっているようだ。また、日本の幹線国道にあたるのが、 「U.S.ハイウェイ」という道路。こちらは、車線が片側1,2車線で自転車も通 れる。そのほか、日本の一般国道や県道などにあたる「ステイトハイウェイ (州道)」がある。

 シアトルからは、「インターステイトハイウェイ」が北へ走っているのだが、 自転車は通ることが出来ないので、州道で北にあるエベレットのまちを目指し た。エベレットまでは、20~30マイル(約30km~45km)ぐらいだったので、2、 3時間で着くかと思ったが、大間違いで、坂が結構多く、曲がった道も多かっ た。さらに、道に迷ったりで、かなりアメリカの道に不安を感じた。

 どうにか地図を見ながら、夕方前にエベレットのまちに着いたので、早速、 宿を探すことにした。エベレットのまちは、シアトルに比べ、かなり小さかっ たので、ユースホステルは諦め、モーテルを探すことにした。しかし、初めて モーテルを探すことになり、要領が分からないので、道路の看板を頼りに、 「Vacacy」と出ているモーテルで出来るだけ雰囲気がいいところを選らんだが 一泊40ドルと結構いい値段だった。ここでもモーテルの人の英語がほとんど聞 き取れず、自分の英語のリスニング力のなさを痛感した。
 泊まったモーテルは、アメリカでは平均的な設備だった(ベットとシャワー・ バス、トイレ、テレビ、冷蔵庫付き)が、食事は出ないので夕食は外のスーパ ーでパンを買って食べた。
 しかし、この日は、初日ということもあり、夕食を食べてベットに横になっ たらウトウト眠ってしまった。目が覚めたら、夜の10時を回っていた。

 次の日、私は7:30にモーテルを出た。
 出発してからまず、エベレットのまちの近くにあるジャンボ機で有名なボー イング社の工場行くことにした。しかし、工場近くに着いた時に、見学時間が 9時と13時ということを知ったのだが、すでに9時をまわり、13時までは相当待 つことになるので、工場の見学は諦めた。

 工場見学を諦めたあとは、最初の難所とも言える峠越えことを心配した。 峠とは、シアトルなどのアメリカ西海岸から続くアパラチア山脈の峠で、ロッ キー山脈に入る前にどうしても越えなければいけないスチーブン峠というもの。
 実は、シアトルのまちからは、富士山の高さをゆうに凌ぐレーニアの山が近 く、またこのレーニアの山はアパラチア山脈に属する。

 エベレットのまちから今度は、U.S.ハイウェイ2号線を東に進み、川沿いの 道を走った。道路は次第に登りの様相を呈して、だんだんペダルも重くなって きた。また、自転車の後輪に荷物の重さがかかり、さらに進みにくくする。
 エベレットのまちから登り調子でのんびり進むと、峠の前にキャンプ場があ ることを知り、この日は無理をせず、このキャンプ場で泊まることにした。テ ントは今回の旅で日本から持参をしていたが、実際アメリカで、テントをどの ように張って泊まるのかまったく来て見なければ、分からなかった。

 この日もあまり無理はしなかったので、夕方前にキャンプ場着いた。このキ ャンプ場は、ワシントン州の管轄のものであり、受付で空きがあるか聴いてみ たところ、すでに予約でいっぱいのうようだったが、なんとか、ベンチがある 空きスペースにテントを張らしてくれた。
 しかし、この日も受付の人の英語が聞きとれずかなり苦労したが、夜になり、 空を見上げると、日本では到底見られないような星の天体ショーを楽しめた。
 私は夜空を眺め、疲れが吹き飛んだ気がした。


●3日目 7/29、くもり時々はれ、走行距離51.09mile
 Seattle(WA)→Everett(WA)
●4日目 7/30、くもりのちはれ、走行距離70.47mile
 Everett(WA)→Beckler River Campground(WA)
  ⇒ここまでの走行距離121.56mile


<第4回へつづく・・・>

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7/27~7/30のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


シアトル郊外から遠くのシアトルのビルを望む(シアトル郊外、1999年7月29日) エベレットのモーテルの様子(エベレット、1999年7月29日)

シアトル郊外の川<左>とエベレットのモーテル<右>(シアトル郊外、エベレット)

峠から流れる渓流(Beckler River、1999年7月30日) キャンプ場の様子(Beckler River Campground、1999年7月30日)

峠から流れる渓流<左>とキャンプ場の様子<右>(Beckler River)

第4回 乾燥した暑さとの戦い

 旅の最初の難関となるスチーブン峠近くのキャンプ場で夜を明かしたが、さ すがに山ということもあり、朝方かなり冷え込み、何度か目が覚めてしまった。 おかげですっかり寝坊をしてしまい、9時半にようやく起きて、10時半に出発 をした。
 この日は、すぐそこの峠を越えれば、後は下りで楽勝かと思っていたが、こ れがなかなクセモノだった。峠までの登り道は、天気がよく暑いく、ダラダラ とした登りが続き、なかなか思うようにチャリが進まない。地図と実際の道で は、大きく印象が違う。

 12時半をまわってようやく、スチーブン峠に着いた。峠でお店でのあれば、 昼食でもとろうかと思ったが、峠にはスキー場しかなくお店での食事は諦めた。 食事はとらずしばらく休んでいたら、そこへ車で峠に来た女の人が「昼食は?」 みたいなことを聞いてきて、バナナを一本くれた。ちょっとありがたかった。 アメリカで初のもらい物だった。
 いただいたバナナを食べ、さあ下りで楽しようと思ったが、登りもあり、案 外距離は伸びず、ちょっと大きなまちのリーベンワースの手前にあるレストラ ンで、昼食を兼ねた夕食をとった。

 この日はそこから、少し行ったキャンプ場に泊まった。キャンプ場は、ただ で泊まれたわりに広い。トイレや水道もあり、早速、涼を求め水浴びをした。 この日は、暑くすっかり日焼けをしてしまった。

 翌日、また寝坊した。やっぱり朝寒く、朝方何度も起きたせいだろう。
 身支度をして、9時半ごろキャンプ場をでた。この日は、前日よりもさらに 暑く感じた。リーベンワースに11時ごろに着いたが、コンロ用のガスを買った り、ちょっとまちを見たりしたら、昼食の時間になったので、スーパーでフラ ンスパンを買って食べた。
 日中、うだるような暑さで、チャリはことのほか前に進まない。腕と足がす っかり焼けて、痛い。

 こんな調子で、この日は走るのをほとんど諦め、休み半分でリンカーンロッ クのステイトパークのキャンプ場で泊まることにした。キャンプ場は、コロン ビア川沿いにあり、川をせき止めた少し大きな湖があり、泳げるようになって いた。暑かったので、川に入りたかったが、子どもがたくさん遊んでいたうえ、 ちょっと狭かったので、やめた。


スチーブン峠(1999年7月31日) リーベンワースの町並み(1999年8月1日)

スチーブン峠<左>とリーベンワースの町並み<右>(ワシントン州)

 夕食を買いに、キャンプ場近くのガソリンスタンドにあったスーパーに行っ た。買ったのは、マカロニ缶とジュースで、10ドル紙幣を渡し、お釣りを確認 したら5ドル足りないことに気が着いた。どうやら、店員は、私が5ドル紙幣 を渡したのと勘違いしていたようだった。もちろん、抗議をしたが、私の英語 が通じず、理解されなかった。こういうときの文句の言い方を覚えておくべき だった・・・。走行距離をはかるメーターも壊れ、本当に嫌な一日だった。

   翌朝、起きたのが6時半。久しぶりに、ぐっすり眠れ、朝早くに出発するこ とができた。フランスパンにピーナッツバターを塗り、朝食をとる。7時半に はキャンプ場を出た。
 キャンプ場からオロンドのまちまでは、順調に走れたが、オロンドからウォ ータービリーのまちまでの10マイルは、登り道だった。地図では小さな峠か と思えたがこれが大間違いで、10時ごろどうにか登りきり、ウォータービリ ーのまちに着いた。

 ウォータービリーは、あまり大きなまちではなかったので、スーパーでジュ ースと水を買い、すぐに出発した。峠を登ってきたのだから、ここから平らな 道が続くだろうと思ったが、またしても大間違い。小さな峠道の連続。さらに、 灼熱の暑さ。腕と足は真っ黒に焼け、死ぬかと思うくらいに痛い。
 さらに追い討ちをかけるように、タイヤの空気が抜け、炎天下1時間くらい 修理に時間を費やした。どうにか、タイヤに空気をいれ、再び走り始めたが、 暑すぎてまったく元気がない。しかも、長く感じる道。地獄の一日だった。

 そうこうして、次のちょっとしたまちのコーリーシティーに3時ごろどうに か着いたが、まちは少し寂れた感じで、泊まる場所があるかどうかかなり不安 になった。スーパーでジュースを買い、一気飲み。そのあと、レストランでハ ンバーガーを食べる。遅い昼食だ。食事のあと、運良くモーテルを見つけ、再 びスーパーで夕食と次の日の朝食を買った。
 この日は、ヘトヘトで食事もろくにできなかった。

●5日目 7/31、はれ、走行距離43.28mile
 Beckler River Campground(WA)→Stevens Pass(WA)→
 Tumw Ater Campground(WA)
●6日目 8/1、はれ、走行距離31.62mile
 Tumw Ater Campground(WA)→Leavenworth(WA)→
 Lincoln Rock Campground(WA)
●7日目 8/2、はれ、走行距離54.11mile
 Lincoln Rock Campground(WA)→Waterville(WA)→Coulee City(WA)
  ⇒ここまでの走行距離250.57mile


<第5回へつづく・・・>

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7/31~8/2のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


リーベンワース過ぎの渓流(1999年8月1日) キャンプ場近くの川(1999年8月1日)

渓流<左>とキャンプ場近くの川<右>(Wenatchee River、Lincoln Rock)

キャンプ場の様子(1999年8月1日) どこまでも続く道(1999年8月2日)

テントサイト<左>とどこまでも続く道<右>(Lincoln Rock、Coulee City)

第5回 西部の暮らしを感じる

 コーリーシティーのモーテルを朝7時に出ようとして、自転車を確認したら タイヤの空気がかなり抜けていた。
 どうにか空気を入れ直し走り出したが、しばらく走ったら不安は的中し、前 輪の空気がまったくなくなっていた。ここでしかたなく、チューブの交換とな った。30分かかって直した。
 しかし、この日も暑い。もう、嫌だ。そこで気を紛らわすため、ポケットラ ジオを使い、FMラジオを聴きながら走った。西部の陽気な音楽が聴こえてくる。 これで、幾分楽になった気がした。

 この日は、ワシントン州東部の大きなまち、スポケンまで行く予定だったが、 暑くてまったく進まない。
 3時ごろダベンポートに着いた。あまりの暑さにスーパーで水とジュースを 買い、ジュースを飲んでいたら、男の人と女の人に話しかけられた。彼らに、 この近くで安いモーテルがないかと尋ねると、男の人が、「家なら安いぜ」と 言った。ということで、彼の家まで案内してもらい、彼の庭にテントを張らし てもらった。
 彼の名前はティムさんで、私が水とジュースを買ったスーパーの社員だった。 彼の庭にテントを張って落ち着くと、「家に入って休め」と言われた。
 彼の家で結局、夕食にハンバーガーをご馳走してもらった。食後、「暑いか ら泳ぎに行かないか?」と誘われ、彼のトラックで、彼のガールフレンド(奥 さん?)と娘さんと彼の愛犬と共に、20分間のドライブとなった。「どこへ泳 ぎに行くのか?」と思ったら、見るからに冷たそうな澄んだ川だった。結局、 30分以上は川に浸かり、涼しんだ。

 川から家に帰ったあとも、ビデオ(ビデオタイトルは不明だが、アメリカの 映画にありがちな学園物。でも結構面白かった。)を見せてもらい、すっかり フレンドリーになった。
 この日は、アメリカ西部の一般的な家庭の暮らしぶりを覗かせてもらった気 がした。本当にティムさんに会えてよかった気がした。

 翌朝、私はティムさんに「朝はゆっくりしていったらいい」と言われたが、 結局、遅れ気味のペースが気になりゆっくりもできず、早く起き、身支度をし ていた。ティムさん達はまだ寝ていたようで、起すのも申し訳なく、また別れ が辛いというのもあり、玄関に感謝のメモとほんのお礼という意味で10ドル札 を残して、7時に出発した。
 人の家でゆっくり休んだこともあり、この日はかなり調子が良かった。地獄 だっただだっ広い西部の台地もスポケンで終わりとなった。スポケンからは、 少しカナダ国境近くを目指し、北東方向に走る。

 スポケンのまちには、10時ごろ着き、ジュースとパンを遅い朝食として食べ る。スポケンは、シアトル以降2番目に大きいまちだったが、特に見るべきも のがなかったので、食事後、自転車屋でチューブを買って、すぐに出発した。
 スポケンのまちでは車の数が多かったので、歩道を走っていたが、まちから 離れると、また広い側道を走ることになった。いくらか、アップダウンがあっ たが、とても心地よい走りができる道。

 夕方4時ごろニューポートのまちに着く。ニューポートのまちは、ワシント ン州とアイダホ州の州境のワシントン州側にあるまちで、ほんの隣にあるアイ ダホ州側の「Old Town」のまちと共に国内の観光地となっているようだった。 まちにあるキャンプ場を見つけ、パスタをチキンスープで食べた。しかし、鼻 の皮がめくれて痛かった。ここ3、4日でかなり焼けてしまった。

 翌朝、キャンプ場を6時半に出る。思ってみれば、この日が一番早起きをし 出発した日だった。
 朝食にピーナッツバターを塗ったパンを作っておき、走ること2時間半、サ ンドポイントのまちに着く。サンドポイントのまちで朝食のパンをかじり、再 び北東に走った。このあたりから峠があるのかと思ったが、すんなり30mileを 走り、ボーナーズフェリーのまちに着く。ここで、昼食をとるためスーパーに 寄り、いつものように、スポーツドリンクとパンとハム、さらに桃を2つ買っ た。桃は西部に来てから初めてだったが、とても甘くおいしかった。

 桃で元気をつけ、出発したが、すぐに急な登りになった。しかも、道が工事 していたところもあり、かなり疲れてしまった。モンタナ州に入る前に、かな り山を登ったので、途中、川に架かった橋の高さは100mぐらいで、これには思 わず足がすくんだ。
 アイダホ州の通過し、モンタナ州に入り、疲れが出てきたので、10mile行っ たところのキャンプ場でこの日は泊まることにした。キャンプ場には、食べ物 が売っていなかったので、持ち合わせのスパゲティー缶(面とソースが缶詰に なっている)を暖め食べ、早めに寝た。


●8日目 8/3、はれ、走行距離30mile(メーター故障のため推定距離)
 Coulee City(WA)→Davenport(WA)
●9日目 8/4、はれのちくもり、走行距離86.71mile
 Davenport(WA)→Spokane(WA)→Newport(WA)& Old Town(ID)
●10日目 8/5、はれ、走行距離91.21mile
 Newport(WA)& Old Town(ID)→Sandpoint(ID)→Bonners Ferry(ID)→
 Kootenai River Campground(MT)
  ⇒ここまでの走行距離458.49mile


<第6回へつづく・・・>

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8/3~8/5のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


ティムさんご家族と共に(ダベンポート、1999年8月3日) 川に向かうティムさんのトラックにて(ダベンポート、1999年8月3日)

ティムさんご家族と共に<左>、川に向かうトラックにて<右>(Davenport)

川での様子(Davenport、1999年8月3日) 水面に浮かぶ(Kootenai River、1999年8月5日)

川での様子<左>と水面に浮かぶ橋<右>(Davenport、Kootenai River)

第6回 グレイシャーの夜空<グレイシャー国立公園その1>

 アイダホ州からモンタナ州に入ったところのキャンプ場をこの日は、7時半 ごろ出た。朝、キャンプ場近くで、自転車に乗った女性に会った。彼女は、グ レイシャー国立公園のローガン・パス(峠)について、すでに苦労して超えて きたスチーブン峠よりの楽だと言っていた。本当かどうか彼女が私と逆の方向 から来たので分からないが、彼女と話して少しは気が楽になった。飛ばしてカ リスペルまで行きたいところだが、カリスペルにはキャンプ場はないようで、 その手前のマックグレゴリーレイクのキャンプ場を目標とした。

 朝食は、「スニッカーズ」だけでは足りず、リビーの町で、パンとバナナを 買って食べた。10時を過ぎていたので、朝食と言うより昼食に近かった。リビ ーから先はほとんど何も家らしい家はなく、西部の田舎のしずかな風景が広が っていた。しかし、程なくして空は曇り始め、雨が降り出した。さわやかな雨 で日本の夏に降る雨のようにムシムシした感じはなかった。雨が止み、再び走 り出した。このあたりまで来ると標高も1,000mを越え始め、高原のような空気 に変わり始めた。
 3時ごろハーピースインに着き、夕食用のスパゲティーを買った。ここから すぐにマックグレゴリーレイクのキャンプ場に着くと思ったが、思ったより遠 く、さらに登りの道だった。

 終わりのほうで油断をし、ようやく4時半キャンプ場に着く。でも、どうや らキャンプ場でキャンプをしているのが私だけのようで、静か。でもあまりき れいではなく、蚊も多かった。

 翌朝、前の日と同じく7時半にキャンプ場を出た。
 カリスペルは、30mile先。空はすっきりしない。でも、サイクリングには、 いい曇り具合で、道も下り気味でスタート。そんなこともあり、目標時間より も早く、カリスペルの町に着いた。スーパーで、鶏肉と野菜のお弁当を買うが、 これがあまりおいしくない。
 遅い朝食の後は、晴れてきたが、ここから平地で向かい風があり、進みにく い。途中、グリーンエバーという町のスポーツ店で、靴下とスプーンセットを 買う。

 その後、ダラダラと30mile走り、2時ごろようやく、グレイシャー国立公園 に入る。公園に入ると結構、人がいた。まず、この日泊まるキャンプ場をアパ ガーのキャンプ場に決めた。まちがって、キャンプ場代を12ドル(自動車で泊 まる人の料金)払ってしまったが、どうやら自転車乗り(biker)は、1泊3ド ルでよかったらしく、パークレンジャーに言って、多く払った分を返してもら った。

 お金の精算をした後、自分のテントサイトに戻ると、隣には、アメリカ人ら しくない、自転車に乗ってきたような男性がいた。話してみると、カリフォル ニアに住んでいるロシア人で、アメリカが誇る石油メジャーの一角、エクソン 社に勤めている人だった。どうやら、長期の休みをとり、3ヶ月の旅をしてい るとのこと。
 彼とそんな話をしているともう一人男性が隣にやってきた。もう一人の彼が 持ってきたビールをご馳走になり、3人で話が盛り上がった。後から来た人は、 オランダ人で彼もまた、休みを使い長旅をしているようだった。彼らと共に、 夕方行なわれていた、パークレンジャーによるプログラム(アメリカの国立公 園では、観光シーズンになると毎日のようにパークレンジャーによる教育プロ グラムが行なわれていて、ガイドツアーや動物や地質などの自然解説や楽器演 奏などのショーが無料で体験できる)に参加し、グレイシャーの山々の成り立 ちを教えてもらった。

 その後、酔った勢いもあり、3人で(公園からほんの少し出た)3mile先にあ るプールバーに歩いて行った。バーでビールをまたご馳走になり、世界共通の ゲームであるビリヤードを3人でやった。勝負は、私の惨敗だったが、すっか り出来上がってしまい。時刻はすでに次の日になっていた。
 バー閉店間際、3人で再び、1時間以上かけ3mileの道をおぼつかない足で歩 いて帰った。月明かりしかない、薄暗い森の真ん中を貫く道を3人で、時々、 自分の旅の話をしながら・・・
 映画の「スタンド・バイ・ミー」の世界がこの時、私の中では広がっていた。

 翌朝、アルコールのせいか何度か目が覚めた。それでも8時ごろ起き、テン トを片付け、パンを食べ始めた。ここで、昨夜私と飲んでいた2人も目を覚ま し起きた。彼らは、食事をしないままテントを片付け始め、それぞれ今日の目 的地がばらばらだったので、10時前に別れの挨拶をして、キャンプ場を出た。

 私のこの日のルートは、自転車での走行が15mile程度で、あとはトレッキン グ(歩き)の予定にした。途中、レイク・マクドナルドで湖を見た。とてもき れいな湖だった。売店で、パンとハムを買い、この日泊まる、アバランチのキ ャンプ場に向かった。キャンプ場はすんなりとれ、昼食としてパン1つを食べ、 チャリをキャンプ場に置き、靴や装備を整え、レイク・アバランチへのトレイ ルに向かった。道は、自然の多い、川沿いのトレイルであったが、思いのほか 早く着くことができた。1時間ほどで、湖の見えるポイントへ。湖からの眺め はまるで絵葉書のようで、正面の氷河が頂きにある山々からいくつもの川が滝 のように流れていた。日本にはなかなか見られない風景だ。
 湖で15分ほど休憩をして、1時間ほどでキャンプ場に帰ってきた。この日は、 走行距離も短く、アップダウンもほとんどなく、散策程度でのんびりと過した が、次はいよいよいままでで最大の難関の峠越えだ。


●11日目 8/6、くもり時々雨のちはれ、走行距離79.37mile
 Kootenai River Campground(MT)→Libby(MT)→
 Mc Gregory Lake Campground(MT)
●12日目 8/7、くもりのちはれ、走行距離70.64mile
 Mc Gregory Lake Campground(MT)→Kalispell(MT)→
 Apgar Campground(MT)
●13日目 8/8、くもり、走行距離15.23mile
 Apgar Campground(MT)→Avalanche Creek Campground(MT)・・・
 Avalanche Lake(MT)・・・Avalanche Creek Campground(MT)
  ⇒ここまでの走行距離597.3mile


<第7回へつづく・・・>

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8/6~8/8のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


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グレイシャー国立公園内の地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


グレーシャー国立公園の入口の看板(Glacier N.P.、1999年8月7日) キャンプ場で知り合った2人と共に(Apgar Campground、1999年8月7日)

国立公園入口の看板<左>、キャンプ場で知り合った2人と<右>(Glacier N.P.)

かわいいレンジャーさんが熊の生態を説明(Apgar Campground、1999年8月7日) Avalanche Lakeからの美しい風景(Avalanche Lake、1999年8月8日)

かわいいレンジャーさん<左>とAvalanche Lakeからの風景<右>(Glacier N.P.)

第7回 キャンプサイトでの出会い<グレイシャー国立公園その2>

 グレイシャー国立公園でも難所となるローガン・パスを越えるため、この日 は、朝の6時に起きた。前日につくった、スパゲティーを食パンにサンドした ものを4つ朝食として食べた。どうかと思ったが、味は悪くはなかった。

 朝食後、7時にキャンプ場を出る。1時間近くは、ダラダラした登りが続いた。 ザ・ループというヘアピンカーブの折り返し地点を過ぎると、道路の横が崖下 という道になった。一歩間違えれば、崖下に真逆さま。かなり怖い。でも眺め はよい。山々が一望できる。
 徐々に登っていき、10時ちょっと過ぎに峠に着いた。峠には、ここはスイス かと思うくらい木造のビジターセンターがあり、多くの人で賑わっていた。朝 食が早かったので、ここでパンを2つかじり、ビジターセンターに自転車を置 いて、トレイルヘッドに向かった。

 トレイルは、ヒドゥンレイクへのトレイルで雪渓が残る道を歩いた。途中、 山にいる羊、マウンテンゴートを見かけた。1時間ほどで、ヒドゥンレイクと いう湖の近くに着いた。湖面までは行かなかったが、後ろの山が近くに感じ迫 ってくる気がした。12時前にビジターセンターに戻り、一気に山を下る。
 一度、国立公園を出て、再び公園内に入り、公園の北西方向にあるメニーグ レイシャーのキャンプ場を目指した。向かい風が強く、なかなか前に進まなか ったが、夕方前の3時にキャンプ場に着いた。ハイカー/バイカー用のサイトを 見つけ、早速、シャワーでも浴びようかと思ったが、お金がかかるようだった ので、水道の水を浴びて済ました。

 さっぱりしたところで、テントサイトに戻ると、同じハイカー/バイカーサ イトに一人の男性がやってきた。挨拶をして話してみると、どうやら彼は、20 歳のドイツ人で、ヒッチハイクで旅をしているとのことだった。やたらと旅好 きのようで、よくアメリカのことを知っているようだった。
 彼と話しているうちに、更にキャンプサイトに、男性と女性の2人組みがや ってきた。彼らは、日本人とすぐ分かった。彼らも、私と同じく、自転車で南 を目指して旅をしているようだった。
 結局、この日はキャンプサイトで偶然、一緒になった3人と話し込み、夜は 更けていった。


朝日を浴びる山(The Loop、1999年8月9日) 峠までの道(The Loop、1999年8月9日)

朝日を浴びる山<左>と峠までの道<右>(Glacier N.P.)

ローガンパス(Logan Pass、1999年8月9日) 峠のビジターセンター(Logan Pass、1999年8月9日)

ローガンパス<左>と峠のビジターセンター<右>(Glacier N.P.)

ヒドゥンレイクへのトレイル(Hidden Like、1999年8月9日) マウンテンゴート(Hidden Like、1999年8月9日)

ヒドゥンレイクへのトレイル<左>とマウンテンゴート<右>(Glacier N.P.)

トレイルの雪渓(Hidden Like、1999年8月9日) セントマリーレイク(Saint Mary、1999年8月9日)

トレイルの雪渓<左>とセントマリーレイク(Glacier N.P.)



 翌日、私は6時半に起きた。朝食は、すっかりアメリカに来てからハマって しまったベーグルとアップルパイ、チキンスープ。
 この日は、レンジャーのガイドツアーでグリンネル・グレイシャーをトレッ キングすることにした。8時からツアーが始まるので、7時40分にキャンプ場を 出た。前日であったドイツ人の彼と一緒だった。

 ツアーは、私とドイツ人の彼(レオナルドさん)を含め、8人程の参加者で スタートした。レンジャーは女性で、ツアーは、時折彼女の話しを聴きながら、 ちょうどよいペースで進んだ。トレイルで咲いているハックルベリーは、クマ も大好物であること、更に木についているキズを、これはベアーサインでクマ が自らのテリトリーの目印につけているなどの面白い話しをしてくれた。
 2時間ほど歩いたあたりから、道がかなり険しくなり、崖の道になり、所々 雪がまだ残っていた。ゴールの氷河グリンネル・グレイシャーの手前のピクニ ック広場で昼食となった。サイトで出会った2人の日本人もこの日、グリンネ ル・グレイシャーを見に行くといっていたので、昼食の時に彼らに出会い、私 たちのツアーを追い抜いていった。
 昼食後、2時にグリンネル・グレイシャーに着く。氷河は、高さ約200m、幅 約1kmという大きさで広がっていた。氷河が解けた透き通った水をたたえた、 小さな湖があったが、水を触ってみるとすごく冷たい。手が凍るくらいだ。ツ アーはここで終わりになるので、ここで20分ほど休憩をとった。ドイツ人の彼 は、まだ、氷河にいる様子だったので、私は来た道を一人で下った。帰りは大 体2時間で下り、先を行っていた日本人の2人と同じ時間にキャンプ場に着いた。

 夕方からは、前日偶然であった4人で夕食を食べ、また旅の話しや自分たち の生活について話した。2人の日本人は、松本さんご夫婦で、カナダのジャス パーから自転車で南下して、メキシコまで行きたいと話していた。私の大学の サイクリング部(私はサイクリング部ではないが友人がサイクリング部だった) に知り合いがいるそうで、世界の狭さを知った。私がラスベガスに行くことを 話したら、松本さんの奥さんから、ラスベガスのホテルの情報をいただいた。
 この日も話が盛り上がり、夜は更けた。


●14日目 8/9、はれ、走行距離57.15mile
 Avalanche Creek Campground→Logan Pass・・・Hidden Like・・・
 Logan Pass→Saint Mary→Many Glacier Campground
●15日目 8/10、はれ、自転車走行なし
 Many Glacier Campground・・・Grinnell Glacier・・・
 Many Glacier Campground
  ⇒ここまでの走行距離654.4mile


<第8回へつづく・・・>

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8/9~8/10のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


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グレイシャー国立公園内の地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


女性のレンジャーさん(Grinnell Glacier、1999年8月10日) グリンネルグレイシャーへのトレイルその1(Grinnell Glacier、1999年8月10日)

女性のレンジャー<左>とグリンネルグレイシャーへのトレイル1<右>(Glacier N.P.)

グリンネルグレイシャーへのトレイルその2(Grinnell Glacier、1999年8月10日) グリンネルグレイシャー(Grinnell Glacier、1999年8月10日)

グリンネルグレイシャーへのトレイル2<左>とグリンネルグレイシャー<右>(Glacier N.P.)

キャンプサイトで出会った4人(Many Glacier Campground、1999年8月10日) Many Glacier Campgroundからの風景(Many Glacier Campground、1999年8月10日)

キャンプサイトで出会った4人<左>とMany Glacier Campgroundからの風景<右>(Glacier N.P.)

第8回 熊との遭遇とライブコンサート<グレイシャー国立公園その3>

 グレイシャー国立公園のメニーグレイシャーのキャンプ場で2晩過ごし、公 園に入って5日目のこの日、朝起きると、空が暗い。いかにも雨が降りそうな 天気。7時には、起きたが、前日とうって変わって嫌な天気だ。
 この日は、氷河が湖に浮かぶアイスバーグとそこの近くのトレイルにあるト ンネルを見ようと思ったが、とても出かけるような天気ではない。ベーグルと パンをかじりながら、結局、この日のハイクは諦めることにした。

 そうこうしているうちに、松本さんご夫婦とドイツ人のレオナルドさんも起 きた。このうち、私だけがこのままキャンプ場に残り、他の3人はこの日、キ ャンプ場を出る。松本さんご夫婦といろいろいろ話している間に、レオナルド さんが出発した。そして、10時過ぎに松本さんも出発した。本当に寂しくな った。
 昼前から、とうとう雨が降ってきた。雨の中、やることがなく、近くのお店 を行ったりきたり、タイヤのチューブのパンクを直したりして、時間をつぶし た。公園の本も買って、読んだりしていた。ぼーとして、夕方になった。

 夕食は、スープスパゲティ(おなじみのメニュー)。そのあと、グレイシャ ーホテルでのスライドプログラムに参加した。公園のいい風景がスライドで見 られた。レンジャーの説明がいまいち良く分からなかったが、見ているだけで も良かった。45分間のスライドのあと、寒い中、キャンプ場に戻ってすぐ寝 た。

 翌朝、7時に起きて空を見ると、やっぱり曇っていた。パンをかじったあと、 レンジャーステーションに行き、今日の天気を確認したら、曇りで所によりサ ンダーストームという荒れた予報だった。今日もだめかと思ったが、日程的に 今日行くしかない。

 8時にキャンプ場を出て、アイスバーグとトンネルを見に行くことにした。 この日、朝からなんとなく、熊に会う気がしていた。その勘が働き、実際、熊 にあってしまった。トレイルを歩き始め30分、後ろを歩いていたヨーロッパ 系の女性が、突然、”Bear!"と叫んだ。前を見ると、前方を歩いていた同じく ヨーロッパ系の男性2人の前から、熊がゆっくりこっちに向かって歩いてくる。 私たちが静かに後ずさりするが、熊はトレイル上を私たちがいる方に向かって くるので、私たちは、道から横にはずれ、熊に道を譲った。ほんのわずか10 mまで近づき、行過ぎた。貴重な体験と言うか運がいいと言うか、本当にびっ くりした。

 アイスバーグには、順調に10時半に着いた。湖に氷河がぷかぷか浮く不思 議な光景だった。ひと休憩したあと今度は、来た道を少し引き返し、トンネル に向かった。急な道で、スイッチバックを繰り返しながら、こんな切り立った 山にトンネルなんかあるのかというところに、トンネルはあった。このトンネ ルは、峠をショートカットするために作られたもので、全長は100m弱。ト ンネルの向こう側には、まだ道が続いていたが、ここで引き返し、キャンプ場 に帰った。

 夕食は、いつものスパゲティ。夕食後は、レンジャーのイブニングプログラ ムに参加。グレイシャーの山の模様が、どのように作られたかという内容だっ た。氷河が長い時間をかけて作る模様。石にもいろいろな色があり、時代によ って色が違うようで、それが地殻変動で作られた模様になるそうだ。

 翌朝、8時半にキャンプ場を出る。この日も寒い。長くいたメニーグレイシ ャーともこの日でお別れ。ちょっと離れがたいが、仕方がない。メニーグレイ シャーに入ったルートとは逆に、セントメリーに10時、ライジングサンに1 0時半に着く。途中、レンタカーに乗った日本人カップルに会い、イエロース トーンに向かう道は、なにもないということを教えてくれた。

 11時から、再び走り始め、難所のローガンパスに向かう。前に反対から来 た時よりは、楽で500mの登りで済んだ。13時にローガンパスに着いたが、 なんとここで、再び松本さんご夫婦に会う。本当に偶然だった。お二人もこの あと、私と同じレイクマクドナルドのキャンプ場に泊まる予定だということを 聞き、うれしくなった。お二人とキャンプ場での再会を約束し、しばらく、ぼ ーとしていると、60才を過ぎた日本人の方が話しかけてきた。何でも、アメリ カ米の会社を経営しているオーナーだそうで、アメリカに暮らしていていても 自分の会社の米を食べているので、日本食には困らないそうだ。

 15時半、松本さんよりも先に、峠を下った。約1,000mのダウンヒルは、楽 だし本当に気持ちがいい。行きで苦しんだ分、楽しみがある。
レイクマクドナルドのキャンプ場に入る前に、お店で食料を買い、18時にキャ ンプ場に入る。キャンプ場で、日本語がうまいアメリカ人と会った。彼は、イ エローストーンに自転車で行ったことがあると言うことで、イエローストーン の道の情報を教えてもらった。

 夕食後、20時半からキャンプ場近くのロッジでライブコンサートを聴きに行 く。松本さんからこのコンサートの話を聞いていたが、コンサートに感動した。 ジャク・グラッドストーンというアーティストのコンサートだったが、アコー スティックギターを弾きながら、渋いいい声で歌う。歌詞は良く分からなかっ たが、ネイティブインディアンの暮らしや動物保護を訴えている歌手のようだ。 思わず、彼のバッファロー・カフェというCDを買ってしまい、彼のサインをも らった。
 しかし、深夜を過ぎても、松本さんご夫婦の姿は見えなかった・・・


●16日目 8/11、雨、走行距離3.57mile
 Many Glacier Campground(移動なし)
●17日目 8/12、くもり時々はれ、自転車走行なし
 Many Glacier Campground・・・Iceberg Lake・・・Ptarmigan Tunnel・・・
 Many Glacier Campground
●18日目 8/13、くもり、走行距離61.53mile
 Many Glacier Campground→Saint Mary→Logan Pass→
 Lake McDonald Campground 
  ⇒ここまでの走行距離719.5mile


<第9回へつづく・・・>

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8/11~8/13のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


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グレイシャー国立公園内の地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


アイスバーグの湖(Iceberg Lake、1999年8月12日) トンネルからの眺め(Ptarmigan Tunnel、1999年8月12日)

アイスバーグの湖<左>とトンネルからの眺め<右>(Glacier N.P.)

トンネルからの眺めその2(Ptarmigan Tunnel、1999年8月12日) ローガンパスへの道(Logan Pass、1999年8月13日)

トンネルからの眺めその2<左>とローガンパスへの道<右>(Glacier N.P.)

第1回 チャリの旅、日本一周へ

 「なぜ、自転車で日本一周をしようと思ったのか?」と、よく人から尋ねら れる。だけれども今振り返ると、日本一周は成り行きで自然に決意した旅だっ たと思う。

 私とチャリの旅との出会いは、もう十年以上前になる。その当時、中学生で あった私は、友人5,6人を誘っては、海や川で遊ぶため江ノ島や伊豆に自転車 で旅行に行っていた。横浜の自宅から朝早く出発して、目標の土地まで1日か けて、サイクリングをしていた。日帰りが中心で1日80kmぐらいの距離だった けれども、今でも楽しい思い出として記憶に残っている。

 高校生になっても中学時代の仲間(今も親友として付き合っていて旅行にも でかけている)と房総半島へ。高2の時、今度は1人でもっと遠くに行ってみよ うと、飛騨高山へ単独のチャリの旅をすることになった。

 実は、どうして飛騨高山を目標地点としたのか忘れてしまった。しかし、夏 休みが40日間しかないことと高校生時分の限られた予算では、明らかに日本一 周をすることは無理だった。

 この高山への旅では今までと違い、泊まるところ、食事の用意、ルートの決 定、アクシデントへの対応などを1人でこなさなければいけなかった。
 けれども、1人の旅というものは、その土地土地の地元の人や旅をしている 人と触れ合うチャンスが多いもので、地元の人達にお世話になりながらも、21 日間の高山へのチャリの旅を無事に終えた。

 ちなみに、高山への旅のルートは、自宅(横浜市)→道志(山梨県)→甲府 (山梨県)→清里(山梨県)→小諸(長野県)→松本(長野県)→乗鞍岳(長 野県・岐阜県、道路上での日本最高海抜地点約2,700m)→野麦峠(長野県・岐 阜県)→高山(岐阜県)→下呂(岐阜県)→名古屋(愛知県)→知多(愛知県) ~<フェリー>~渥美(愛知県)→浜松(静岡県)→静岡(静岡県)→御殿場 (静岡県)→自宅(横浜市)だった。

 そして、月日は流れ、大学一年生となり、サイクリング部や探検部に入るこ とはなく、なんとなく学生生活を送っていた夏、大学の友人であるN君(サイ クリング部で北欧、エジプト、中国と海外をチャリで走る旅人)が自転車で、 日本一周を成功させた。

 「俺にもできるだろうか・・・」それが、私の日本一周への決意だった。

 こうして、今まで行ったことのある最北端が新潟で、最西端が京都・奈良だ った私がチャリで日本一周をすることになった。

 <第2回へつづく・・・>

高2の夏、乗鞍高原にて(1995年8月)

高校時代の高山への旅の写真から(乗鞍高原、1995年8月)

第2回 日本一周の旅のはじまり

 私にとって、「日本一周」は未知の世界であった。日数はどれだけかかり、 お金はどれくらい必要か、ルートをどう決めたら良いのか・・・など思い立っ たものの、まったく検討がつかなかった。ただ「自分にできないことはない!」 という自信に似た確信だけはあった。

 まず、日本一周を思い立った大学1年の冬に旅費をどう工面するか考えた。 その当時、アルバイトはしていたものの、人並みにも楽しい大学生活を送っ ていたためか生活費の出費は多く、貯金は十数万円ほどしかなかった。

   しかし、大学には2ヶ月近くの春休みがあり、旅費を捻出するため時給がい いアルバイトをすることになった。私がその春休みにしていたアルバイトとは、 完成前の新築マンションの内外装のクリーニングをするというもので、いわゆ るゼネコンの現場仕事という、一昔前でいう3K(キツイ、汚い、暗い)の部 類に入るアルバイトだった。もちろんその分、時給はいい訳で、月に20万円を 稼ぐことができた。

(その後、5、6種類のアルバイトを経験したが、このアルバイトが一番高時給 だった。ところで、1ヶ月で20万円ということは2ヶ月で40万円という計算だが、 その後夏の日本一周の旅までに20万円が生活費でなくなっていた・・・)

 また、運が良く私の大学に自己推薦で応募ができる奨学金制度があった。 本来、この奨学金は、社会的な学外活動を積極的にしている人が対象であった。 私はYMCAでボランティアリーダーをしていたので、これを自己推薦し、駄目で 元々で応募したら、なんとみごと審査が通り、30万円の奨学金をいただけるこ ととなった。しかし、特にYMCAでの活動は、お金がかからないものであったの で、いただいた奨学金を推薦した活動のためではなく、日本一周の旅の旅費に 当てた。これも、本来、奨学金は学費を出していただいた親に渡すべきもので あるが、親を説得し旅の資金に当てた。

 こうして、旅費は、50万円近く用意できた。

 次に、ルートと日程を心配した。
「大学生の特権は、『休みが多いこと』」と思っていたが、日本一周となると、 まるまる2ヶ月ある夏休みも短いものとなる。北は北海道、南は沖縄を2ヶ月で まわるスケジュールを組むには、1日100km以上走らなければならなかった。 「非常にタイトだ」、そう思ったのは、実際に日本地図を見ながら走るルート を考え、予定日を地図に書き込んでいる時だった。

 ただ、「予定はあくまでも未定」ということで、実際、その予定のルートと 日程にはこだわらなかった。「行けるところまで行く」、そんな考えしかなか った。そうこうしているうちに、はじめは夏の暑さを避けるため北海道へ、涼 しくなる8月後半から沖縄に向かう、自宅→北海道→沖縄→自宅の北周りのル ートに決めた。

 もう一つ気になることが自転車と旅の装備だった。
特に、車種にこだわりがなかったので、普段乗っているマウンテンバイク (MTB)をそのまま使うことにした。今思えば、そこら辺のディスカウントス トアーで売っていそうなもので、よく日本一周ができたと思うほどそんなたい そうなものではなかった。

 しかし、装備にはかなり悩んだ。できるだけ軽くしないと自転車が重くなる。 けれども、いろいろもって行きたい。そんな板ばさみに悩んだ。しかし、装備 選びには、自信があった。高校時代、山岳部であったため、キャンプ道具には それなりに精通していたし、中学時代からのチャリの旅での経験で必要なもの と不必要なもののある程度の検討はついていた。

 だが、絶対的な自信を持って装備の選択をしたのにもかかわらず、出発前に 重さを量ったら、30kg(もちろん自転車を除いてだが)だった。これには、び っくり。はっきりいって、装備すべて載せた自転車は、自転車ではない。 「原動機がない大型のバイク」だ。けれども、旅には手ぶらはありえないのだ からしかたがない。

 こうして楽しい日本一周の旅の準備をすすめ、地獄のような大学の試験を終 え、大学2年の夏、1998年7月25日の朝、頭を坊主にした私は、まだ夜が明けき らない横浜の自宅を出発した。

 <第3回へつづく・・・>

日本一周の旅、出発前の私とチャリ(横浜の自宅前、1998年7月25日)

日本一周の旅、出発前の私とチャリ(横浜の自宅前、1998年7月25日)

第3回 東京へとんぼがえり?! <横浜~仙台>

 2ヶ月間という長い旅の初日は、結構しんどいものであった。東京の都心に 出るまでは、順調であったが、皇居の桜田門で雨に降られた上、浅草あたりで 道に迷い、東北への道、国道6号線に出るまでにかなり時間をロスした。
 しかし、初日は、到着目標地点の水戸まで着かなかったものの、東京都、千 葉県を越え、家から121km離れた茨城県の石岡市で宿をとることとなった。宿 を取るといっても、基本的には「野宿」だ。石岡駅近くの公園でテントを広げ 夕食をとった。

 ところで、日本一周のチャリの旅のテーマは、「人との出会い」であった。 そんなことを意識しているているためか、初日にも関わらず、人に助けられた り、話したりすることがあった。土浦の近くでは、北海道によく自転車に行く 地元のおじさんから、ヤクルトやバナナをもらった。宿を取った石岡では、地 元に住む同い年の人からいろいろ旅の話をしてもらた。本当に旅には多くの出 会いがある。

 2日目は、福島県のいわき市を到着目標地とした。
 しかし、全身が痛い。思うように体は動いてくれない。筋肉痛というよりも 全身が凝ってしまっていた。その上、1日目に日焼けしたところが、火照って 痛みがある。2日目にして、日焼けで真っ黒であった。
 1日目の目標地だった水戸では偕楽園により、水戸の黄門様の像の前で、旅 の師匠として写真を共にした(でも、一説によると黄門様は、テレビのように 旅にでることはなかったらしいが・・・)。

 水戸を昼ごろ前に出て、日立市を過ぎ、太平洋に出た。海を見たのは、この 日がはじめてだったので、海を見た時、不思議とペダルを漕ぐ力が沸いて出て きた。
 結局、この日は、福島県に入ったものの目標のいわきには着かず、手前の湯 本温泉で宿を取った。この湯本は、地名の通り温泉の源泉がある所で、150円 で温泉に入ることができた。旅の後の温泉は、まさに天国。この日は、テント を張った公園にいた猫が人なつっこく困った(テントの中まで入ってきて、思 わず「お前の寝床じゃなくて俺の寝床だ!」と怒鳴ったが、もちろん通じなか った)が、温泉で疲れも取れぐっすり寝た。

 3日目は、仙台を目標にして、ペダルを漕いだ。
 しかし、自宅を出てから、すっきり晴れることなく、霧のような天気で悩ま されていた。雨が降ると目が痛いし、晴れると暑いし、ころころかわる天気に はお手上げだった。
 また、疲れがたまっていたのか、走っている最中に眠くなってきて、途中海 岸で昼寝した。

 昼寝で、すっきりしたもののやはり、3日目も目標の仙台には着かず、宮城 県の岩沼市で宿を取った。岩沼でテントが張れそうな場所を探し、日本三大稲 荷の1つ「竹駒神社」の駐車場を借りることにした。しかし、トイレがなく近 くの神社の参集殿という会館らしき所へいってみたところ、会館のおじさんに、 事情を話すと「会館の裏でテントを張ったほうがいいよ」と、雨のあたらない 所に案内してくれた。その上、会館のお風呂を貸していただいた。

 次の日、私は、会館のおじさんの声で起きた。「おにぎり作ったからもって 行け」と、おにぎりを2個もらった。これを朝飯で食べ、おじさんに感謝と出 発の挨拶をして、岩沼を出た。この日は、20km先の仙台駅まで行く事にした。

 横浜を、出発して4日目。横浜から400km離れた、杜の都仙台に着いた。しか し、どうして、この日は、仙台駅止まりかというと、実は、大学のテストが次 の日にあったから。なぜ、テスト前に出発してしまったのか反省しつつ、チャ リを仙台駅の地下駐輪場に置き、JRの「青春18切符」を使い、東京の大学へ向 かった。鈍行で、6時間かけ、東京の日野市にある大学の友人の家に向かった。

●1日目 7/25(土)、曇り時々雨のちはれ、走行距離121.9km
 自宅(横浜市保土ヶ谷区)→日本橋(東京都)→石岡駅(茨城県)
●2日目 7/26(日)、きり、走行距離126.3km
 石岡駅(茨城県)→偕楽園(茨城県水戸市)→日立(茨城県)→湯本駅(福島県)
●3日目 7/27(月)、きり、走行距離142.6km
 湯本駅(福島県)→双葉(福島県)→相馬(福島県)→竹駒神社(宮城県岩沼市)
●4日目 7/28(月)、はれ、走行距離22.1km
 竹駒神社(宮城県岩沼市)→仙台駅(宮城県)+++日野市(東京都)
  ⇒ここまでの、走行距離412.9km

<第4回へつづく・・・>

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7/25~7/28のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

チャリの旅で初めて見る海(茨城県高萩、1998年7月26日) テントまで入ってくるほど人なつっこいのら猫(福島県湯本、1998年7月26日)

”初太平洋”<左>と人なつっこい猫<右>(茨城県高萩、福島県湯本)

第4回 貴重な体験(?)と仲間との出会い <仙台~盛岡>

 前日、仙台駅にチャリを置き友人の家に着いた私は、ぐっすり寝た。しかし、 翌朝起きてテスト勉強する気はなく、そのまま友人と共に大学へ。
 テストは幸い簡単であった。でも、大学で会う友人には、出会うたびに「焼 けたね~」の一言。

 テストが終わって休む間もなく、大学の最寄駅から再び、青春18切符を使い、 チャリが置いてある仙台駅に向かった。上野駅からは、東北線の快速で北上し た。途中、黒磯駅で電車を乗り換え、仙台駅行きの鈍行電車に乗った。

 しかし、東京では晴れていた天気が急変し、雨が降り出した。そんな中、泉 崎という無人駅で雨が激しくなり、電車が止まった。しばらくして、「集中豪 雨のため運転を中止します」とのアナウンスが流れた。「こんなところで、止 めるな!」と叫びたかったが、こればっかりはどうしようもなかった。このあ と、無人駅で2時間電車は止まったままだった。

 雨が小雨になり、再び電車が動き出した時には、もう夜が更けていた。動き 出してしばらくして、またアナウンスが・・・。「この電車は福島駅止まりと します」これには、びっくり。「仙台駅に行かしてくれ~!」  しかし、そんな願いが通じたのか福島駅からはJRがタクシーを用意していた らしく、タクシーで仙台駅に向かった。タクシーで1時間半、高速道路を使っ ても80kmぐらいはある。もちろん、いままでこんな長くタクシーを乗ったこと がない。気になるタクシー代は、2万円を超えていたが、もちろんJRが払って くれた。
 そんなこんなで、仙台駅に着いたのは、深夜の3時を過ぎていた。

 仙台駅に付いたのが朝方であったので、チャリを置いている駐輪場は閉まっ ていた。その上、前日のアクシデントで熟睡できず、かなり眠くなった。駐輪 場が開くのが朝の6時。6時までどう時間を潰そうか悩んだが、結局、駅近くの ファミレスで朝食をとり、時間を潰した。

 6時になり、一目散に駐輪場に向かい、チャリに乗った。何か懐かしさを感 じた。駅を出て、まず「独眼流政宗」こと伊達政宗の銅像がある青葉城址公園 に向かった。伊達政宗の像は、馬に乗っていたが、私はチャリに乗って杜の都 の仙台のまちを見下ろした。
 仙台のまちをひと回りした後、この日の目標地を、国道4号線を北上しての 花巻までと決めていたが、なんとなく松島へ行ってみたくなり、気が付いた時 には、海岸沿いの道を走り始めていた。
 ほどなくして、松島に着いたが、天気も良くなかった影響で島が望めず、あ まり面白くなかった。

   国道4号線に戻ってから、雨がひどくなり、目標の花巻までを諦め、築館の 赤坂温泉を到着地とした。しかし、がんばって築館に着いたのだが、赤坂温泉 の位置を地元の人に聞くと、「もう、温泉はやってないよ」との答えが。雨で エネルギー奪われた上、衝撃の一言で、がっくりきた。仕方なく、残るエネル ギーを振り絞り、温泉があるという一関に向かった。

 一関に向かう途中、自転車に荷物を積んで走る青年を見かけた。どこまで行 くのかと尋ねたところ。「今日はこの辺で泊まろうかと考えていますが、お風 呂を探しているんですが・・・」と返事が返ってきた。一関にお風呂があると 伝え、せっかくだから「一緒に行きませんか?」と誘い、10kmほどの道をこの 青年と走った。
 2人で一関に着くとまちにあるスーパー銭湯のお風呂に入った。しかし、こ の青年はテントを持っていない上、雨で宿を探す気になれず、仕方なく私の狭 いテントをシェアーして一緒に寝ることになった。まちの中で公園を探せなか ったので、銭湯近くのガソリンスタンドの雨がしのげるところにテントを張っ た。

 翌日、彼とはすっかり仲良くなり、いろいろ自分のことを話し合うようにな った。
 なんでも、彼は、アメリカの大学に留学していて、夏休みで日本に戻って来 ていたそうだ。出身は、大阪で、兄貴と一緒に自転車で大阪から北海道へ旅を していたが、兄貴が名古屋あたりではぐれ、その後は一人で旅しているらしく、 数日前に兄貴と連絡が取れ、盛岡でまた合流するとのことだった。彼の事情を 聞いた上で、この日、私も目標を盛岡としていたので、今日も彼と一緒に盛岡 を目指すことになった。

 一関を出て、金色堂で有名な平泉の中尊寺に寄った。金色堂は、本当に金箔 で輝いていて、入場料800円を払った価値があった。中尊寺で、彼が兄貴と連 絡を取りたいとのことで、電話をかけていたが、状況を聞くと「兄貴がまた行 方不明や」と答えた。それで私が、「これからどうするんだ?」と聞くと、 「1人で北海道にいくわ」と返ったきた。彼が関西人だからいい加減なのか、 それとも何かの縁なのか分からないが、偶然であった彼と一緒に北海道に向か う運命になった。

 彼と北海道に向かうことになり、とりあえずこの日は、盛岡を目標にして走 っていると、途中、彼が女性2人と話していて止まっていた。「何か?」と聞 くと、「どこへ行くのですか?」と女性が聞いてきた。事情を説明すると「2 人の旅のことをラジオに今から紹介したいのですが、ラジオに出てくれません か?」と。「えっ、ラジオ?」、はっきり言って驚いた。もちろんラジオに出 るなんて生まれて初めてだ。

 この女性2人はどうやらアナンサーらしく、30分ほど打ち合わせをして、収 録をすることになった。収録といっても実は、生放送だったのだ。「智美と美 智子と明日もがんばって行こう!」との2人の台詞で生放送は始まった。その 後のやり取りは、緊張でよく覚えていないが、よくある街角リポートだ。スタ ジオの男性DJから、旅の予算を聞かれ、手持ちがあと17万円だった(正確には、 郵貯にもう10万円はあった)ので、「17万円です」と答えると、スタジオの男 性DJが「日本一周の旅、17万円なり!」と言ったことだけは印象に残る。たっ た5分間のラジオ出演だったが、貴重な体験だった。生放送だから、自分の声 がイヤーフォンから聞こえることが、変に感じた。

 2人のアナンサーと分かれる時、ラジオ局(ちなみに、このラジオ局は、IBC (岩手放送)ラジオ:関東圏のTBSラジオのローカル局でした)の記念ボール ペンをもらった。また、昨日から一緒に行動していた彼の名前が、ラジオ出演 の時に初めて、「マサ」だと知った。名前を気にしていなかったので、すっか り聞き忘れていたのだ。

 ラジオ出演のあと、盛岡まではあっと言う間に着き、例のごとく銭湯に入り、 汗を流し、予てからの願望であった、わんこそばを2人で食べに行った。「東 屋」というお店で、1食2,000円は高かったが、思い出のため涙をのんでわんこ そばに挑戦した。
 100杯を越えると賞状と手形をくれるらしく、それらがほしくなり、苦しみ ながらなんとか100杯を超え、115杯を食べた。(ちなみに、大人の男性で(嘘 っぽいが)平均50杯とのこと。)

 気持ち悪くなりながらも、近くの岩手公園でテントを張り、その日は寝た。 こうして、長い1日は終わった。

●5日目 7/29(火)、はれのち豪雨、走行距離0km
 日野市(東京都、友人宅)~大学(東京都)~豊田駅(東京都)+++
 福島駅(福島県)―仙台駅(宮城県)
●6日目 7/30(水)、くもりのち雨、走行距離113.3km
 仙台駅(宮城県)→松島(宮城県)→築館(宮城県)→一関(岩手県)
●7日目 7/31(金)、くもり時々雨、走行距離101.9km
 一関(岩手県)→平泉(岩手県)→北上(岩手県)→盛岡(岩手県)
  ⇒ここまでの、走行距離628.1km

<第5回へつづく・・・>

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7/29~7/31のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

伊達政宗像と私(宮城県仙台、青葉城址公園、1998年7月30日) IBCラジオのアナンサーお2人と(岩手県花巻周辺、1998年7月31日)

伊達正宗像<左>とIBCラジオのアナお2人<右>(宮城県仙台、岩手県花巻)

第5回 ハネトで「らっせーら!らっせーら!」 <盛岡~函館>

 岩手公園の芝生は寝心地よく、ぐっすり眠れた。朝起きて、マサが「家の母 ちゃんが今日仕事から実家に帰って来るので、兄ちゃんのことが分かる」と言 った。家に連絡を取るため、昼の1時過ぎまでは盛岡にいるということで、私 も1時過ぎまで盛岡にとどまることにした。
 時間があったので、ガタがきはじめていた自転車のブレーキシューを取り替 えるため、街中の自転車屋を探すことにした。しかし、なかなか自転車屋は見 つからず、30分歩いてやっと自転車屋を見つけブレーキシューを購入した。
 街をぶらぶらして公園に戻り、1時になってマサが実家に電話することにな った。しかし、相変わらず兄ちゃんとの連絡はつかないようだった。

 そんなマサの複雑な気持ちを乗せ、2時に岩手公園を出た。30kmほど上り気 味で、途中、山中の石川啄木記念館に寄った。記念館では、啄木の生い立ちを 知り、啄木が教員をしていた当時の学校が残っていたので、見学をした。昔の 校舎は、天井が結構低く、木の香りが漂っていた。

 記念館を出てからは、下り20kmの道のりを快適に走り、この日の目標地の金 田一温泉に着いた。金田一温泉は田舎の温泉街で、温泉に入ってから夕食をと るための店を探したが、近くには一軒の飲み屋しかなかった。飲み屋は、田舎 の居酒屋といった感じで、マサはカレー、私はチャーハンを頼んだ。味はまあ まあ。
 食べ終わった時に、隣の席にいたおっちゃんに声をかけられた。「どこから 来た?」という質問は分かったが、その後の会話は、かなり方言がすごくて聞 き取れなかった。おっちゃんとの会話は進み、旅のことを話すと、例のごとく ビールをご馳走になった。
 そんなこんなで、ビールを飲まされ、生ビールを中ジョッキ5杯飲み、すっ かりできあがっていた。話せば、このおっちゃん、地元建設会社の社長だった らしく、気前良くビールを奢ってもらった上に、1万円をいただいた。その後 は、店を変え近くのパブで2次会へ・・・。すっかり、マサは酔ってぐったり していた。おっちゃんにお礼をしつつ別れ、寝るためマサを介護し近くの公園 に向かった。

 翌朝、マサは相変わらず、グロッキー状態であった。酔いながら寝たところ は、どうやら公園ではなく、町営プールにある東屋だった。夜中、東屋に着い た時には、先客がすでに寝ていた。先客は、思わぬ客にすっかり目が覚めてし まったようで、マサをいっしょに介護してくれた。先客は、大学生で私よりも 1つ上の人だった。彼は、北海道から実家の京都に向かっているようで、北海 道の様子を尋ねると、ずっと霧雨だったと話してくれた。彼は、先をいそうで いるようで、9時ごろに別れた。
 この頃には、マサの気分もだいぶよくなってきたので、私たちも先を急いだ。 この日は、青森まで行こうと決めていた。しかし、天気は朝から雨で、しかも 肌寒い。この日は、夏にも関わらず、低温注意報が東北地方に出されていた。 道路の温度表示を見ると「20℃」と表示されていた。この日は、寒さと眠さで まったく先に進まない。
 途中、雨がひどくなりドライブインで昼食ついでに少し休むことにした。昼 寝もして、3時にドライブインを出た。青森の目標であったが、無理をしない で手前の野辺地を目標地とした。野辺地の陸奥湾温泉の一軒の宿を見つけ、こ の日は宿でゆっくりすることにした。温泉で冷えた体を温めて夕食を宿でとっ た。素泊まり4,000円で、ちょっと出費がつらかったが、夕食のカツ丼は、今 までの旅の料理で一番おいしかった。久しぶりの畳の部屋と布団でぐっすり寝 た。

 次の日、布団のおかげで、目覚めがよく疲れも取れた。朝食は、納豆定食を 食べたが、素朴だがやはり買って食べる弁当とは味が違い、栄養になる。ここ のところの雨で洗濯物がたまっていたが、女将さんが洗濯をしてくれて、乾燥 機で服をふかふかにしてくれた。宿の人にお礼を言って、10時に宿を出た。

 青森までは約40kmの道のりで、疲れがとれたのであっと言う間の2時間で青 森に着いた。旅の出発前に、青森の「ねぶたまつり」を見たいと思っていたが、 タイミングよく、「ねぶたまつり」の開催期間であった。まつりは夕方からな ので、街中をマサとぶらぶらすることにした。青森と言ったら「りんご」とい うことで、街の「りんご」専門店を見つけ、りんごやりんごアイスを堪能した。 その後も時間があったので、海で釣りをすることにした。近くの釣具屋で竿な どの道具を買い、1時間釣りをしたが、これがぜんぜん釣れない。つまらなく なり、4時半ごろ街に戻った。その時、リンゴ専門店の人に「まつりは『ハネ ト』になって踊らなければつまらないよ。」と言われたことを思い出した。 「ねぶたまつり」自体はじめて見るのだが、『ハネト』の存在を知らなかった。 『ハネト』の貸衣装をやっているお店があるといっていたので、良く分からな いがとりあえず、衣装を借りて『ハネト』でまつりに参加することにした。

 『ハネト』の衣装もばっちり決まり、はじまりだした祭りを見学することに した。祭りが始まると、太鼓やお囃子がねぶたの動きに合わせて聞こえてきた。 そんな、太鼓やお囃子に合わせて「らっせーら!らっせーら!」という声が聞 こえてくる。そう、『ハネト』は、この「らっせーら!らっせーら!」という 声に合わせて、独特のステップで跳ねるだ。元々、祭り好きな私は、すかっり 『ハネト』となり、1時間近くは跳ねていた。跳ね疲れ、最後にもう一度外か ら祭りを見てマサと街を出た。

 言うまでもなく青森は、本州の北端の街。次に向かうのは、北海道!本州を 出たことがない私にとっては未知の大陸。「ねぶたまつり」の余韻を味わいな がら、20:20発の函館行きのフェリーに乗り、青森を後にした。

●8日目 8/1(土)、くもり時々晴れ、走行距離48.0km
 盛岡(岩手県)→山中(岩手県)→一戸(岩手県)→金田一温泉(岩手県)
●9日目 8/2(日)、雨、走行距離82.2km
 金田一温泉(岩手県)→三戸(青森県)→十和田(青森県)→野辺地(青森県)
●10日目 8/3(月)、くもり時々雨、走行距離45.2km
 野辺地(青森県)→浅虫温泉(青森県)→青森(青森県)~函館(北海道)
  ⇒ここまでの、走行距離803.5km

<第6回へつづく・・・>

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8/1~8/3のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

石川啄木記念館の学校にて(岩手県山中、1998年8月1日) 青森「ねぶたまつり」で「ハネト」になる(青森県青森市、1998年8月3日)

石川啄木記念館の学校<左>と「ハネト」で跳ねる私<右>(岩手県山中、青森市)

第6回 北の大地との出会いと仲間との別れ <函館~登別>

 青森からフェリーに揺られ、日付は変わり夜も明けない2時20分に函館に着 いた。フェリーで少し寝たが、眠気にたまらずフェリーターミナルの待合室の 椅子で寝た。だが、固い椅子なのでもちろん寝付けない。

 函館の朝市に行くため、旅仲間のマサとともに4時半に起きて、フェリータ ーミナルをあとにした。朝市には、20分ほどで着き、待合室で見た雑誌に載っ ていた「きくや食堂」の巴丼を食べることにした。巴丼とは、ウニ、イクラ、 ホタテが3種類の丼でボリュームがあって1,300円という安さであった。「きく や食堂」は有名なお店らしく、有名人のサインが並ぶ。こんな贅沢な朝食は生 まれて初めてだった。

 朝食後は、朝市をぶらぶらして、夕張メロンやカニなどを試食。チャリを押 しているとお店の人は「がんばれよ!これ持っていけ!」といって、何でもく れる。
 朝食後の間食もひと段落し、近くのレンガ倉庫で眠いので仮眠を取った。し かし、すぐ近くでイベントがあったようで、マイク音で起こされた。
 結局、ぐっすり寝れず、起きてマサと函館のまちを観光した。オルゴールを 売っている明治館、八幡坂や大三坂、旧イギリス領事館やハリスト教会などの 名所をまわり、イカスミソフトクリームも食べた(イカスミの味はほとんどな かった)。函館山のロープウェイは、山頂がガスって見えなかったので、いい 景色は望めないと思い諦めた。

 函館のまちをだいたい観光して、この日の宿にする所を五稜郭のど真ん中の 公園にすることにした。五稜郭に向かう途中で、釣りに再チャレンジするため 釣りえさを買っておいた。五稜郭の公園に夕食前に着き、一度、公園の外で夕 飯を食べ、人気がなくなった夜にテントを張り、すぐ寝た。しかし、10時ごろ 高校生ぐらいの子どもが近くで花火をはじめ、騒がしくなり、なかなか寝付け なかった。

 翌朝、「いち、に、さん、しー」という声が目覚まし代わりだった。「何だ? 」と思い、外を見てみると、公園ではラジオ体操が始まっていた。おじいちゃ ん、おばあちゃんがたくさん、テントの前で体操をしている。寝る場所を間違 えたようだ。おじいちゃん、おばあちゃんを前にテントを片付ける。ちょっと 恥ずかしかった。

 7時半に五稜郭を出た。国道5号線を北上し、ほどなく大沼に入った。しかし、 どうもマサの足の調子がよくない。様子見で、コンビニで休むことにした。コ ンビニの目の前で、メロンを売っているおばちゃんが「どっから来た?」と声 を掛けてきた。おばちゃんと話すと、メロンはライダーの人が買って行くよう で、メロンのほかゆでもろこし、鮭の燻製などをいただいた上、エリマキの木 で作ったキーホルダーをいただいた。メロンがおいしかったので、岩手の金田 一温泉でお世話になったおっちゃんにお礼にメロンを送った。

 八雲で昼食を取り、3時には長万部に着いた。マサの足の調子も良くなかっ たので、今日は長万部で泊まることにした。寝るにはまだ早いので、余った時 間で釣りをすることになった。なんでも長万部は、カレイが釣れるところで有 名。そんなこともあり、釣り場に行くとすでにおっちゃん数人がカレイを釣っ ていた。釣りを先にしていたおっちゃんに釣り方のコツを教わり、釣りを始め た。
 まもなく、次から次へとおっちゃんはカレイを吊り上げるが、一方、俺たち は・・・。待つこと1時間。「来た!」という声がマサから聞こえた。第一号 のあたりは、マサだった。しかし私には、あたりは来ず。さらに待つこと2時 間、ついに私の竿にヒット。釣ったカレイはそんな大きくはなかったが、これ ほど釣りで感動した瞬間はなかった。

 結局、マサと私の1匹ずつのカレイ2匹しか釣れなかったが、釣り方のアドバ イスをしてくれたおっちゃんにカレイを4匹もらい、全部で6匹のカレイが夕食 の食材となった。おっちゃんにカレイはさばいてもらい、焼いてみることにし た。しかし、ガスのストーブではなかなか火が通らず、半生で食べてしまった。  北海道は釣りをすれば、素人でも新鮮な魚が釣れるのだから、本当にいいと ころだと感じた日であった。  翌日、マサの足の調子がやはりよくないので、これからチャリの旅をいっし ょにするかをマサと相談した。結果、これ以上私のペースを乱したくないとの マサが言い、室蘭でマサがフェリーで大阪に帰ることになった。
 やはり別れが惜しくなり、室蘭までは一緒に走ろうと話した。しかし、長万 部を出てから一向に、マサのスピードが出ない。しんどそうだった。私と旅の 経過日程が違い、マサは私よりも西の大阪から出発し、旅も長い。疲れがたま っていてもおかしくない。「先に行ってくれ!」と何度もマサが言うが、とて も先に行くことはできなかった。

 伊達を過ぎたあたりでついにマサの足が限界に来たようで、マサはまったく ペダルをこがなくなった。心配してマサに声をかけると「先に行ってくれ!登 別まで間に合わへんで!」。1週間旅を共にした仲間と別れるのはつらい。別 れるのはとてもつらいが、私にも日本一周という目標があったので、断腸の思 いで、先に行くことを選んだ。別れ際、マサに「がんばれよ!」と声をかける と、「応援しているぞ!」との返事が返ってきた。マサにいう仲間に恵まれて、 いい出会いが出来たと思った。

 マサと別れ、登別に着いたが、行きたかった登別温泉は一山登らなければい けなかった。しかし、雨での走りで体力はなく、隣町の虎杖浜で宿をとること にした。
 虎杖浜の銭湯で、70歳ぐらいのおじいちゃんに「焼けてるね~」と声をかけ られ、おじいちゃんと話をした。話してみるとこのおじいちゃん、20年前まで は、近くの原子力施設の代表だったと話してくれた。なんでも、四国と本州を つなぐ橋(瀬戸大橋?)のワイヤーを作ったそうだ。ワイヤーといっても300 トンもあるとのこと。おじいちゃんの子どもは、私と同じ大学の中央大学の法 学部にいたそうだが、7年も大学にいたので、しびれて北海道に連れ戻してき たと話していた。おじいちゃんは、私のようにチャレンジするような青年にあ こがれているようで、チャリの旅をしている私にえらく感動してくれた。とて もありがたい応援をもらった。

 この日、テントは雨のため銭湯の近くの公園で張った。

●11日目 8/4(火)、くもり、走行距離25.4km
 函館(北海道)→五稜郭(北海道函館市)
●12日目 8/5(水)、晴れ、走行距離115.5km
 五稜郭(北海道函館市)→大沼(北海道)→八雲(北海道)→長万部(北海道)
●13日目 8/6(木)、くもりのち雨、走行距離105.4km
 長万部(北海道)→室蘭(北海道)→登別(北海道)→虎杖浜(北海道)
  ⇒ここまでの走行距離1049.8km

<第7回へつづく・・・>

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8/4~8/6のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

五稜郭にてマサと(北海道函館、1998年8月4日) カレイを吊り上げる私(北海道長万部、1998年8月5日)

旅仲間マサと五稜郭で<左>、カレイを釣る私<右>(北海道函館市、長万部町)

第7回 遥かなる大地と大空と <登別~美瑛>

 昨晩から降っていた雨も朝には晴れて、この日の朝、虎杖浜を7時に出た。
 虎杖浜から苫小牧までは平らな道が続いた。しかし、北海道の寒さか、それ ともこの日の朝に飲んだ牛乳があたったのか苫小牧で腹痛に見舞われた。近く のコンビニでトイレを借り休憩をしたらだいぶよくなり、再び走り始めた。苫 小牧からは、国道235号線に乗り換え、さらに東へ進んだ。

   鵡川を過ぎたあたりから少し丘が続き、やたらと馬の牧場が目に付くように なった。どこを見ても牧場、牧場・・・。馬も私を見て、かなりチャリが珍し いのか必ずこっちを向いてくれる。途中、競馬場もあったがあいにくこの日は やっていなかった。
 富川で、国道235号線を左に折れ、日高に向かう国道237号線へ。富川のスー パーで、久しぶりに自炊をしようと食材を買出したが、近くに水が出る公園が なかったため、10kmほど走り、水がありそうな小学校でカツ丼を作った。校庭 では、おじいちゃん、おばあちゃんがゲートボールをしていたが構わず、米を 炊き、カツをたまねぎや卵などでとじた。しかし、米の炊き方が失敗し、ご飯 が固かった。おかげで、消化不良で朝の腹痛がぶりかえした。

 腹痛をおして、この日の目的地の日高に向かった。だらだらとした登りだが、 雨が降り始め、寒い。
 夕方6時前にようやく日高に着いた。とにかくお風呂に入り、宿を道の駅と することにした。道の駅の横の銀行にテントを張ろうとした時、そこには先客 がすでにテントを張っていた。話すと、どうやら長崎大学のサイクリング部の 人で、九州から北海道へ来たようで、明日は十勝に向かうそうだ。自転車を見 るとさすがサイクリング部、チャリの装備が軽い。30kgの私の装備とは明らか に違う。彼も疲れているようだったので、この日は話はそこそこで早めに寝た。

 翌朝、起きてみると雲一つない青く澄んだ空が広がっていた。これまで一番 の快晴だった。
 朝食は、タマゴサンド。と言っても卵を茹で、マヨネーズ、塩、こしょうを あえ食パンに挟むだけ。長崎大の彼も起きて、自炊するとはすごいと言われた が、自炊は確かに面倒くさい。でも結構、料理を作るのは嫌いではないし、作 り方によっては安上がりだ。
 長崎大の彼は、7時半ごろ出発したが、私は少し遅れて8時ごろ道の駅を出た。

 日高から富良野までの道のりは結構きつかった。峠道なので200mは登った。 しかし、富良野までは、50、60kmだったので、風景を眺めながらゆっくり走っ た。  日高峠と金山峠を越え、南富良野に入ったところで、メロンを売っている農 家があった。休憩がてら寄ってみると、農家のおばちゃんが売り物のスイカや モロコシをくれた。おばちゃんと話をすると、北海道のメロンと言えば夕張メ ロンだが、富良野のメロンの方が実はおいしくて、そんなに高くないと話して くれた。おばちゃんに富良野のメロン(本当にうまかった)もご馳走になり、 12時ごろ再び走り始めた。

 1時間ほどで富良野の街中に着く。街中はかなり観光地化していた。昼飯に、 朝の玉子サンドの残りとおばちゃんにもらったモロコシを食べ、街中を観光し た。吉本良二さんの写真館やチーズ工房に寄り、富良野の名産ラベンダーを見 ようとファーム富田に向かった。しかし、ラベンダーはもう遅かったようで、 あまり咲いていなかった。代わってヒマワリが元気良く咲いているのを見て、 北海道も今が夏真っ盛りなんだと感じた。名物ラベンダーソフトクリーム(な んかサイダーっぽい味だった)を食べ、ラベンダーの香りで心を落ち着かせた。

 宿は中富良野駅近くの森林公園のキャンプ場にすることにした。キャンプ場 はすでに、ライダーの人たちでいっぱいだった。夕食はカレー。もちろん自炊。 前日、米の炊き方がうまくいかなかったので、今回は火力を弱めて炊いたらう まくいった。カレーもいままでで一番のできばえ。しかし、北海道の夜は寒い。

 次の日の朝、あまりの寒さのため何度か目が覚めたが、すっきり起きられず ウトウトと8時ぐらいまで寝ていた。寒いのは当たり前の話で防寒になる服も あまりなく、寝袋もかなり薄いものだから仕方がない。

 昨日の残りのカレーをチルドパックに入れ、温めて朝食にしようとした。け どうまくいかず、温まっていないカレーをしかたなく食べた。あまりゆっくり してはもったいないと思いテントをたたみ始めた時、隣のテントサイトの人 (ライダーで一見一昔のヤンキーっぽい感じの人)が「どっから来たのですか? 」と声を掛けてきた。話せば、仕事(建築関係)が半分クビ状態で、熱いから 北海道に来たとのこと。大阪から来たが、旅の予定を決めずに来たのようで、 お勧めの場所を尋ねられた。私がこの日の目的地としていた美瑛を勧めた。そ うすると彼も行くと言ってくれた。どうやら私が行き先を決めてしまったよう だ。

 ライダーの彼が出発したのを追うように、10時ごろキャンプ場を出た。富良 野のまちをゆっくり別れを惜しみながら、深山峠へ。その峠から美瑛の丘を見 渡せるとの話を聴いていたので、峠に着いてまず写真を撮ることにした。カメ ラを構えていたら、自転車に乗っていた女性から声をかけられた。話すと彼女 は公務員で、強引に休みを取り、北海道に来たそうだ。北海道は2回目で今回 はゆっくり自転車で回っているとのこと。彼女に昼食を誘われ、峠の「ウッテ ィーライフ」というカレー屋(でもあり宿屋でもあった)に入った。入ってみ るとログハウスで雰囲気がいい。黒カレーがお勧めとのことで早速頼んだ。カ レーの色は、本当に黒で、ウインナーが2つ付いていた。具は、溶けて汁状に なっていた。食べるとコクがあり上品な味だった。食べ終わる前に、この店の ご主人が話をしてくれた。なんでも、この店は雑誌などで載っているほどの有 名店で、宿には主人が面接をして合格した人しか泊めないというこだわりを持 っていた。

 店を出たあとは、自転車の彼女とも別れ、美瑛の丘めぐりに走った。丘を眺 めながら、まずは美馬牛小学校へ。とんがり屋根の洋風の建物で、小学校と言 う感じがしない。写真をしっかり撮り、次は拓真館に向かった。拓真館は、写 真家の前田真三さんの個人ギャラリーで、彼の写真が多く展示されている。彼 は美瑛の丘の写真を多く残しているので、これから美瑛の丘の写真を撮ろうと している私には大変良い見本となった。

 手本を見た後は実演ということで、早速、丘に向かった。まず、拓真館から 見える赤い屋根の小屋のそばまで行くことにした。このあたりは、砂利道で観 光客がまったくいない絶好のポイントだった。絶好のポイントで写真を撮り、 自分の目にも丘の色を焼き付けた。
 後は、雑誌を頼りに有名な丘に向かった。新栄の丘は、観光客が多くいい感 じがしなかったが、三愛の丘の方では、人があまりいなかったので眺めが良か った。マイルドセブンの丘は、一面の芝生でしばらく寝転がり、気持ちが良か った。北西の丘、ケンとメリーのポプラの日が落ちる前に着いた。夕日と丘の コントラストが妙に北海道の広さを感じさせてくれた。写真を撮るのもしばし 忘れ日が落ちるのを眺めていた。

 この日は、かしわ園というキャンプ場でテントを張った。

●14日目 8/7(金)、くもりのち雨、走行距離153.8km
 虎杖浜(北海道)→苫小牧(北海道)→富川(北海道)→日高(北海道)
●15日目 8/8(土)、晴れ時々くもり、走行距離86.7km
 日高(北海道)→占冠(北海道)→富良野(北海道)→中富良野(北海道)
●16日目 8/9(日)、晴れ時々くもり、走行距離53.1km
 中富良野(北海道)→上富良野(北海道)→美瑛(北海道)
  ⇒ここまでの走行距離1343.4km

<第8回へつづく・・・>

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8/7~8/9のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

ラベンダー畑から十勝岳を望む(北海道中富良野、1998年8月8日) 美瑛の丘にて(北海道美瑛、1998年8月9日)

ラベンダー畑からの十勝岳<左>、美瑛の丘<右>(北海道中富良野町、美瑛町)

第8回 北限の地へ <美瑛~稚内>

 この日は、美瑛のキャンプ場を朝8時ぐらいに出発し、前日残したセブンス ターの木へ。私としては、この木が美瑛の丘に一番映えていたと思う。だから、 一番のお気に入りの木だった。

 美瑛の丘とも別れを告げ、一路、旭川へ。朝食を食べていなかったので、途 中パンを買って食べた。旭川では、アイヌ記念館に寄った。この記念館では、 アイヌ人の川村カ子(ネ)ト氏のことを紹介していた。カ子(ネ)ト氏は、ア イヌ人の酋長でもあり、鉄道の測量技師としても活躍していた。いかにも、ア イヌ人という威厳のある顔つきであったのが印象的だった。

 昼は、記念館近くのラーメン屋でしょうゆラーメンを食べてみた。こってり していて、色がしょうゆというより味噌っぽかったが、食べてみると別にしつ こくなく、おいしかった。

 旭川を出て、風の強さか足の疲れかペダルが妙に重い。止まって前輪を見る と、ブレーキシューのゴムが摩れて、ブレーキがかかっている状態になってい た。とにかく、簡単に応急処置で直し、再び出発した。

 和寒を過ぎたところで、「もも」という看板が目に付いた。この桃屋のトラ ックにひきつけられ、足が止まった。桃屋のおっちゃんは私を見てまず、みか んをくれた。話すと、おっちゃんは紋別で桃を売りたかったそうだが、ここの ところ天気がよくないので、ずっとここにいて桃を売っているとのことだった。 私が来る前に、自転車で宗谷岬に向かっていった人や歩いて宗谷岬を目指して いる女性の話を聞かせてくれた。
 おっちゃんには、桃を2つもらい、「今日は、美深の道の駅まで無理してま でも行け!」とのアドバイスをもらった。どうしてかと尋ねると、「道の駅に キャンプ場があり、温泉もある」という答えが返ってきた。これを聞いた私は、 もちろん美深を目指し、チャリを走らせた。

 しかし、美深まではつらかった。名寄でもう暗くなり、辺りは真っ暗。数分 に1回走る車のライトで道がしばらく明るくなるが、車が過ぎるとまた暗くな り、チャリのライトだけではすごく怖かった。田んぼがたくさんあったので、 時々虫が顔に飛んでくる。結構、口に入ったりするので、余計に怖い・・・
 暗い道を自分で「がんばれ!」と言い聞かせ、ついに8時ごろ美深のまちに 着いた。すぐに道の駅横のキャンプ場にテントを張り、温泉につかった。寝場 所から温泉が近いとは天国のようだ。ぐっすり眠れそうだ。

 次の朝、久しぶりに早く起きた。6時に起き、前日残った桃1つを食べ、7時 に出発した。
 この日は、北限のまち、稚内まで行くと決めていた。横浜を出発をして、18 日目。ついに日本の北の端まで来てしまった。

 稚内までは、150km。結構あった。けれど、朝早く出たため、十分いける距 離だった。足の疲れもあったが、道が比較的平らであったため、20km/hで走り 続けた。サロベツの原野を眺めながらのロングラン。走りに走り、気が付いた ら今までの一日の走行最長記録158kmを走っていた。

 稚内から最北の地、宗谷岬までは、30kmぐらいあり、この日行って帰ってく るにはちょっとしんどかったので、諦めて稚内で宿をとることにした。
 キャンプ場は、稚内公園の山を登った森林公園のキャンプ場にした。ここから は、稚内のまちが一望でき、夜景がきれいだ。

 次は、最北限の地、宗谷岬・・・ではなく、花の浮き島、礼文島を目指す。

●17日目 8/10(月)、くもり、走行距離135.7km
 美瑛(北海道)→旭川(北海道)→士別(北海道)→名寄(北海道)→
 美深(北海道)
●18日目 8/11(火)、晴れのちくもり、走行距離158.0km
 美深(北海道)→音威子府(北海道)→豊富(北海道)→稚内(北海道)
  ⇒ここまでの走行距離1637.1km

<第9回へつづく・・・>

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8/10~8/11のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)

セブンスターの木から美瑛の丘を望む(北海道美瑛、1998年8月10日) 稚内公園から稚内の港を望む(北海道稚内、1998年8月11日)

セブンスターの木<左>と稚内公園から港を望む<右>(北海道美瑛町、稚内市)

第9回 花の浮き島で徒歩「8時間コース」 <礼文島>

 この日は、礼文島への6:20発のフェリーに乗るため、朝5時に起きた。
5時に起きたと言っても、あまりにも寒くてよく寝つけなかったと言った方が いい。朝食はパンで済まし、公園からフェリー乗り場まで一気に下り、目を覚 ました。
 フェリーに乗ると人が結構乗ってくる。多くの人は2等席になるが、この2 等席の席取りは、自転車の人は有利である。なぜなら、フェリーに乗るときは、 自動車やただ船に乗る人よりも、先に乗せてくれる場合が多いからだ。もちろ ん私は眺めがいい、窓際の席を取るのだが・・・。

 フェリーが出航して、2時間足らずで礼文島の港町、香深に着いた。
朝食べたパンでは、足りなかったので、島に着いて早々、お店でパンでも買お うと思い、4,5軒のお店を回ったが、なぜかパンがほとんどお店になかった。 あっても、食パンかあんパンぐらいであった。どうやら、船便の関係で、今日 の分の商品がまだ本島から届いていなかったようだ。仕方がないから、どう見 てもカステラとは思えない「カステーラ」という菓子パン(味はいまいち)を 買って食べた。
 そんなこんなで、香深のまちをブラブラしていると、フェリーの出航の見送 りにでくわした。よく見ると、騒がしく歌っている人の群れがあった。近くで 見ていたおじさんに聞くと、この礼文島の見送りは有名だそうで、なんでも宿 に泊まった人が島を出て行くとき、宿に残っている人が見送る。宿によっては、 踊ったり歌ったりして見送るそうで、特に、桃岩荘のユースホステルがすごい と言われた。1度、ユースホステルに泊まりたいという気持ちはあったが、今 回はあまり泊まる気にならなかった。

 香深のまちを探索した後は、桃岩と地蔵岩を見ることにした。桃岩への峠道 は厳しく、海抜0mから150mと急な道を登った。朝からきつい運動だった。桃岩 の展望台までの道に花がきれいに咲いていた。展望台から海を見るとまさに絶 壁。少し、怖かったが桃岩は桃のように面白い形をしていた。桃岩の次は、峠 を越え坂を下り地蔵岩へ。行ってみると岩の形は、地蔵と言うよりも「炎」に 近い形だった。

 2つの岩を見た後は、香深に戻り島の南のまち、知床へ。知床の灯台を見る ために自転車を降りて、1時間のハイキング。道にやたらとカラス(カラスじ ゃなくてこの辺では「エゾコクチョウ」と言うそうだ)が多くて、近づいても 逃げないのを気にしながら、灯台に行ってみたが特に面白いというものではな かった。
 山を降りる途中、マウンテンバイクを押して、登ってくる2人の人に会った。 話してみるとこの2人(1人は60代のおじさんで、もう一人は私と同い年ぐらい の女の人)、朝から自転車で「8時間コース」をまわってきたととのことだっ た。これはすごいことだ。観光パンフレットでこのコースのことを見ると島の 西側の山道(実は島には東側しか道路がないのだが)と書いてあったので、そ れを自転車で行くとは・・・。

 この2人と別れてからは、今度は北の岬のスコトン岬を目指すことにした。 途中、2人に教えてもらったキャンプ場でテントを張り、荷物を置いて岬に向 かった。岬はすっかり観光地化され、観光バスが乗り入れていた。なんだかが っかりした。

 岬を見た後は、突然の雨に降られながら大急ぎでキャンプ場に戻った。
キャンプ場はすでに、ライダーの人たちで賑わっていた。その中、昼間、灯台 で会った2人に再会し、お酒を一緒に飲んだ。3人で飲んでいるといつの間にか、 テントサイト近くのライダーの方も何人か加わり、すっかり旅の話で盛り上が った。2人(札幌に住んでいて、どうやらおじいちゃんと孫の関係)ともすっ かり仲良くなり、ライダーの方々ともいろいろな話ができた。
 空には雲の切れ目から北斗七星が輝いていた。この日もいい出会いがまたで きた。

島での見送り(礼文島香深、1998年8月12日) 島で出会った方々と(礼文島香深井のキャンプ場、1998年8月12日)

礼文島での見送り<左>と島で出会った方々と<右>(礼文島香深、香深井)


 
 翌朝、仲良くなった2人とあいさつを交わし、2人のこれからの動きを尋ねた が、2人はこの日、本島に帰るとのこと。私もこの日天気が良くなかったので、 朝に島を離れ本島で戻ろうかと思ったが、高いフェリー代を払って島に来たの だから、「8時間コース」に行かないわけには行かず、決心して挑戦すること にした。朝食もろくに食べず、そそくさと支度して出発の準備をはじめた。
 2人に別れを告げ、女の子と札幌をもしかしたら案内してもらう約束をして、 前日一緒に飲んだライダーの方々にも別れのあいさつをしてキャンプ場を出た。

 まず、「8時間コース」のスタートを香深として、コースの入口に自転車を 置き、そこからはひたすら歩くことにした。でだしに自転車で前日登った桃岩 への峠道を歩いた。自転車でここを登ったんだなと思いつつ、一面に広がる花 を見ながら、林道を登った。林道では、人はほとんどいない上に、霧が出てき て、なんだか急に寂しくなった。熊が出たらどうしようと思いながら、「レブ ンウスユキソウ」とい花が群生する場所まで来た。
 この「レブンウスユキソウ」は、エーデルワイスの仲間で、この島しか見ら れない高山植物。しかし、それらしき花を見つけられず、近くでカメラを持っ たおばさんが通ったので、聞いてみると「さっき、見てきたよ」と、花が咲い ている場所まで案内してくれた。花は、とても小さく、綿毛があるのが特徴の ようで、雨露をはじいていた。

 花を写真に撮ると、再びコースを歩いた。しばらくして、道は林道からちょ っと険しい登山道に変わった。登山道では、地元のおじさんに会い、「8時間 コース」は気をつけなと言われた。なんでも、「8時間コース」で死んだ人が いるとのこと。少し、怖くなったが、山は自分の得意フィールドで、装備もし っかりしているから大丈夫と言いきかせた。
 宇遠内から、いきなり海岸の岩場を歩くことになった。切り立った岩が今に も落ちてきそうで、スリルがあった。海岸を1kmほど歩き、また山道となった。 山道では、キャンプ場で一緒にお酒を飲んだライダーの1人に会った。このラ イダーも朝、「8時間コース」を歩くと言っていたので、再会がこんなところ でできてうれしかった。このとき、コースを歩き始め4時間は経っていた。

 その後、2時間、海沿いの山道を歩き、また浜辺にでた。ゴロタ浜を通り、 もう棒状態の足を必死で進ませ、コースのゴール、ゴロタ岬(本当は、スコト ン岬までだが前日通った道なのでここをゴールとした)に着いた。これで、礼 文島一周をしたことになる。岬からの眺めは、まさに絶景で、ここから島がほ とんど一望できた。
 帰りのフェリーの時間を気にしながら、急いで岬を降り、バス通りへ。しか し、バスの本数は少なく次のバスを待っていては、今日最終のフェリーに間に 合わなかったので、ヒッチハイクをすることにした。実は、ヒッチハイクは生 まれて初めてで、どきどきしていた。コツが分からず、手を挙げるだけでは、 なかなか車(特に観光客っぽい車)は止まってくれなかった。どうにか、5台 目ぐらいの車が止まってくれた。どうやら、島の民宿の人で、フェリー乗り場 まで、お客を迎えに行く途中だったようで、ちょうど運が良かった。

 こうして島の人に助けられ、5時25分のフェリーに乗るため、朝置いていっ た自転車に再会し、大急ぎでフェリー乗り場に向かったが、どうやらフェリー は、5時25分に島着でその後、稚内に引き返すスケジュールになっていたよう で、フェリー乗り場に着いたちょうどその時、船が乗り場に着いた頃だった。  花の浮島、礼文島の姿を見送り、私は稚内のまちに戻った。

●19日目 8/12(水)、晴れ時々雨、走行距離87.3km
 稚内(北海道)~香深(礼文島)→知床(礼文島)→スコトン岬(礼文島)→
 香深井(礼文島)
●20日目 8/13(木)、くもり時々霧雨、走行距離22.0km
 香深井(礼文島)→香深(礼文島)・・宇遠内(礼文島)・・ゴロタ岬(礼文島)⇒
 香深(礼文島)~稚内(北海道)
  ⇒ここまでの走行距離1746.4km

<第10回へつづく・・・>

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8/12~8/13のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


日本のエーデルワイス「レブンウスユキソウ」(礼文島桃岩付近、1998年8月13日) ゴロタ岬近くから北方を望む(礼文島ゴロタ岬、1998年8月13日)

「レブンウスユキソウ」<左>と遠くロシアの地を望む<右>(礼文島桃岩、ゴロタ岬)

第10回 道東をローカル電車で旅する <稚内~札幌>

 前日、礼文島から稚内のまちに戻り、森林公園のキャンプ場で再び泊まった。
 疲れからかこの日は朝ゆっくり7時ごろ起きた。礼文島に行く前に残してい た宗谷岬とノシャップ岬に行くことにした。朝食に前日の夕飯で作った。冷め た親子丼を温め、昼食用にハンバーグを焼き、ゆで卵を挟んだサンドイッチを 作っておいた。キャンプ場で洗濯物を干し、今までチャリにつけていたサイド バッグの荷物も置いて11時ごろノシャップ岬に向かった。

 ほどなくしてノシャップ岬に着いたが、観光地化していたので、あまり面白 みがない。ちょうど12時ごろだったので、食堂を覗くと、うに丼が3,000円と 法外な値段に驚いた(もちろん食べる気にはなれなかった)。簡単に食事をサ ンドイッチで済ませ、そそくさと写真を撮り、宗谷岬に向かった。
 宗谷岬に向かう途中、「うに丼1,000円」という看板が目についた。特に腹 が減っていた訳ではなく、さっきの3,000円と比べたら安いので、なんとなく 食べたくなって、看板の食堂に立ち寄った。うにの量は少なかったが、獲れた てなので、とろけるような口当たりでおいしかった。

 うにで元気をつけ、小1時間で最北限の地、宗谷岬に着いた。しかし、見渡 す限り、人、人・・・。ふと、近くのバス停の待合所に立ち寄ったら、壁にた くさんの落書きとノートが置いてあった。落書きやノートには、自転車やバイ クでここまで来た人のコメントが書いてあった。中には、私と同じようにチャ リで日本一周を果たし、ここがゴールだったという人のコメントも書いてあっ た。もちろん私は、同じようにノートに自分の足跡としてコメントを残した。
 観光客が落ち着いたところで、岬の記念碑の前で写真を撮ることにした。私 の前にいたライダーが三脚を立て、セルフタイマーで撮ろうとしていたので、 「撮りましょうか?」と尋ねると断られた。しばらくして、指を海の方を指し、 ポーズを決めシャッターが降りた。面白い格好だったので、周りの観光客が笑 っている。今度は私の番となったが、迷いもなく彼にシャッターを押すのを頼 んだ。ポーズは彼のを真似てチャリに乗って海を指した。周りからは笑いがあ ったが、気にせず調子に乗り、間宮林蔵ととも一緒に写真に収まった。

 日も暮れ始め、稚内のキャンプ場に戻った。夕食は、簡単に済まし、ふとチ ャリの後輪を見たら、タイヤが磨り減っていた。家を出てから2,000km近く走 ったので、だいぶくたびれてきたようだ。タイヤを心配しながらも、道東行き のスケジュールを考えていた。「北海道はいいところだが、すべて回っては横 浜に帰れない。道東は電車しかないか・・・」。そう決断した。

日本最北限の地にて(稚内市宗谷岬、1998年8月14日) 間宮林蔵の像と(稚内市宗谷岬、1998年8月14日)

日本最北限の地の記念碑<左>と間宮林蔵の像と<右>(稚内市宗谷岬)



 翌朝、稚内駅の一番電車に乗るため、5時に起きた。チャリに着けていたす べての荷物をザックに入れ替え、ザックを背負ったら重くて、びっくりした。 旅に出る前に量ったら、30kgであったが、なんだかんだで荷物が増え、おそら くそれを越えている。
 6:42発の名寄駅行きの普通電車に乗った。もちろん、青春18切符を使った。 北海道の普通電車は、大体、1両のワンマン電車で、「レールバス」といって も過言ではない。ゆっくりと電車で揺られ、車内で朝食を食べる。
 名寄駅からは旭川駅行きに乗り換えた。途中、通ってきた国道40号線を懐か しく眺めた。

 旭川駅では、少し待ち時間があったので、駅でかにめし弁当を買って、富良 野線の電車に乗った。富良野線の電車では、ボックス席で60代の老夫婦と一緒 になり、話した。老夫婦は、十勝岳にこれから登るようで、私を見て、「若い ころはこういうこと(私のように旅をすること)ができなかった」と話してく れた。しかし、旅で出会う人出会う人(特に年をとった人)は、私のような旅 をうらやましがってくれる。「がんばれ」となんとなく背中を押される。
 富良野駅では、次の電車まで2時間待ちだった。北海道では特急電車が優先 され、普通電車は極端に本数が少ないので乗り換え待ちの時間が結構長い。し かたなく、富良野のまちをぶらつき、昨日から気になっていた後輪のタイヤを 換えるため、自転車屋をまわった。しかし、お盆ということもあり、まわった 4軒とも休みだった。

 富良野駅からは、快速電車に乗り(青春18切符は快速電車も乗れます)、帯 広駅へ。快速電車と言っても、いままでと一緒の1両ワンマン電車だ。山の中 を走りぬけ、17時ぐらいに帯広駅に着いた。しかし、次の釧路駅行きの電車が 20時発だったので、3時間待つことになった。
 3時間どうやって時間を潰すか、考えたがともかく帯広のまちに出て自転車 屋を探したが、見つからなかった。しばらく、まちを歩いていると的屋や屋台 が並ぶ通りに来た。どうやら祭りがあるようだ。
 まちをひと回りし、夕食も済ましたところで、祭りは始まっていた。「平原 祭り」という祭りのようで、山車とともにいろいろな衣装をまとった踊り子が 踊っていた。太鼓の音も響き、「エンヤー、コラサッ、ドッコイ、コラサッ」 というかけ声が押し寄せる。団体で20ぐらい、個人でも祭りに参加していて、 衣装がとても個性的で、まるで年末の紅白歌合戦の某歌手の衣装を見ているよ うだった。

 祭りが盛り上がっているころ、私は釧路駅行きの電車に乗り、闇夜を走る電 車でウトウトした。釧路駅には、23時半に着き、駅近くの公園を探しテントを 張り、すぐ寝た。

 翌朝、起きたら雨が降っていた。寒い・・・。寒さで起きたと言った方がい い。やはり、道東の釧路は寒かった。朝食を食べるため、7時ごろ外へ出た。 幸い、泊まった公園の近くに朝市があったので、チャリを組み立て、寄ってみ た。まず、すし屋で1膳分のご飯を買い、おかずをいろんなお店で買った。カ ニ、イクラ、ホタテ、甘エビ、マグロを買い、カニの鉄砲汁も買った。朝から 豪華だったが、1,280円となり案外高くついてしまった。

 朝食を済まし、雨の中、釧路湿原へ向かった。しかし、寒さで泣きそうなく らいだった。道路の温度計を見ると「15℃」で、夏とは思えない。吐く息も白 い。冷たい雨の中のでの走りはつらく、2時間かけ市立の湿原の展望台に着い た。展望台からは、晴れていれば遠く湿原を見渡せ、鶴も見られるとのことだ ったが、雨で鶴どころか湿原もはっきり見えない。

 私は、釧路に来る前に、道東の週間天気をチェックしていたが、ずっと雨だ ったことにショックを受けていた。しかし、釧路に来て、やはりずっといても あまり天気が期待できないと感じ、この先の道東の旅を諦め、この日のうちに 札幌に向かうことにした。また、いつか道東に来ようと決めた。

 釧路駅に引き返す途中、ついに自転車屋を見つけたので、寄った。タイヤを ついでだから、スリットタイプのもにしようと思ったが、お店に置いてなかっ たので、結局ブロックタイヤを選び、面倒だったので、お店の人につけてもら った。タイヤを交換した後、当たり前だが、走りが軽くなった。
 タイヤを交換したこともあり、釧路駅15時発の札幌方面行きの電車に乗るこ とができた。今回は、乗り継ぎ時間が短く、札幌駅に着くようになっていた。 雨の中の走りで、ぐったりしていた私は、電車では終始ウトウト眠っていた。

 こうして、この日の夜、札幌のまちに着いた。宿は豊平公園にテントを張り 泊まった。

●21日目 8/14(金)、くもり時々晴れ、走行距離83.7km
 稚内(北海道)→ノシャップ岬(北海道)→宗谷岬(北海道)→稚内(北海道)
●22日目 8/15(土)、晴れのちくもり、走行距離0km
 稚内(北海道)+++富良野(北海道)+++帯広(北海道)+++釧路(北海道)
●23日目 8/16(日)、雨のちくもり、走行距離35.4km
 釧路(北海道)→釧路市湿原展望台(北海道)→釧路(北海道)+++
 滝川(北海道)+++札幌(北海道)
  ⇒ここまでの走行距離1865.5km

<第11回へつづく・・・>

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8/14~8/16のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


帯広の盆踊りでの踊り団体の1コマ(帯広市、1998年8月15日) 雨の釧路湿原(釧路市立湿原展望台、1998年8月16日)

帯広の盆踊りでの踊り団体の1コマ<左>と雨の釧路湿原<右>(帯広、釧路湿原)

第11回 北海道との別れと新たな船出 <札幌~新潟>

 朝方、雨が降っていたようで、テントのフライシートが濡れていた。しかし、起きたころにはすっかり晴れていた。
 ゆっくりと出発の準備を始め、羊が丘の方に向かった。登りが続き、朝の運動にはちょっときつかった。やっとのことで羊が丘に着いたが、お金を500円払わなければいけないことには驚いた。羊が丘には、有名なクラーク像があったので、写真を撮った。ちょっとふざけて、クラークさんと同じ格好でパチリ。ここにはジンギスカンのレストランがあったが、もちろんお金に余裕がなく諦めた。
 羊が丘をまわったら昼になったので、大通り公園で昼食のスパゲッティーを茹でて食べた。昼食後は北大に向かった。北大では、ポプラ並木を歩き、ひと回り。時計台にも寄った。時計台は、なかなか見つからずやっと見つけたが、ビルの中にぽつんとあって、しかも工事中だった。これにはがっかりした。中には入れず残念。次は、サッポロビールの工場に向かった。見学時間ぎりぎりに着いた。見学は1時間ぐらいで、工場内はツアーで見学したが、3Dで浮き上がる劇仕立ての製造工程の解説案内には驚いた。
 日も暮れはじめたころにはお腹がしていた。札幌に来たからには、夕食はラーメンを。ラーメン横丁という10数軒の店が並ぶ有名な場所に向かった。どの店も有名で、有名人の色紙が並んでいたが、ともかく店に入った。どの店に入ったか忘れたが、味噌ラーメンを頼んだ。でも、味がおいしのかよく分からなかった。
 食後、風呂場を探すため、すぐさま近くにいた自転車に乗ったおばさんに聞いてみた。そうしたら、「付いて来て!」と言われお風呂屋まで案内してくれることになった。そのおばさんの後を必死で付いて行き、お風呂屋に着いたが生憎、休みだった。「あら」と言った感じだった。お風呂に入るのを諦めかけていた時、おばさんが今度は「会社に来ない?」と言うので、おばさんのご主人の会社でビールをご馳走になってしまった。
 別れ際、夜景がきれだからとうことで、「旭山に行ってみたら」と勧められた。陽も落ちはじめ、山道を登り、ようやく旭山公園に着いた。地元のおばさんが勧める通り、札幌のまち一望でき、公園からの夜景がすごくきれいだった。夜景を見た後は、お風呂を探すため、すすきのに入り、何とか銭湯を見つけた。銭湯では、すすきのという土地柄か、ヤ○ザさんがいらっしゃいました。兄貴と舎弟といった感じの2人で、背中には刺青。別に害はないのだが、ちょっと緊張した。
 お風呂に入った後、テントは近くの中島公園で張ったが、寝付こうとした時に、「この辺は危ないから気をつけつけな」という声が不意に外から聞こえてきた。テントの外を見ると、地元のおじさんがいた。いろいろ旅のことを話していくと、おじさんが横浜ベイスターズのファンのようで、横浜から来たというだけで、仲良くしてくれた。(ちなみにこの年は、横浜ベイスターズが優勝し、甲子園では松坂の活躍により横浜高校が優勝していた「横浜」の年でした。)お酒もいただき、寝る頃にはすっかり酔っ払っていた。

 次の日は、前日のお酒が利いていたので、しばらく公園中で休み、気分がよくなってきたところで札幌のまちを出発した。
 途中、「白い恋人」でおなじみの石屋製菓のチョコレート工場に寄った。工場では、「白い恋人」の製造過程を見学できたが、どちらかというと試食が目的だった。
 2時間弱で小樽のまちに着いた。小樽では、有名な運河やオルゴール堂、硝子館、石原裕次郎記念館に寄った。特にお土産を買うでもなく、まちをぶらついた。石原裕次郎記念館では入館料が高く驚いたが、「西部警察」の撮影当時の写真などがあって、それなりに楽しめた。
 ところで、小樽に着いてから北海道の旅をこれ以上続けるかどうか考えていた。考えた結果、私の旅は北海道だけで終わらせてはいけないと思い、北海道の旅をもうこれ以上続けないことを決めた。日本一周をする旅のスケジュールは大幅に遅れていた。予定では、もう本州を南下し、東北地方に着いていることになっていた。時間がないという焦りより、やっぱり南の島を目指さなければ意味がないと感じたからだ。この日、私は小樽からフェリーでの新潟行きを決めた。
 フェリーは、明日の午前10:30に出発する。
 次の日の出発を控え、フェリー乗り場近くのかつない臨海公園(キャンプは禁止だが)にテントを張って寝た。

 次の日、起きて焦った。フェリーに乗るための持ち合わせのお金がないことに気が付いたからだ。大急ぎで朝食を食べ、まちの中心部の郵便局に駆け込んだ(実は、旅先のお金は足りなくなりと郵便局のATMで下ろしていた)。しかし、ATMは9時から開くので、早く着いても待ちぼうけをくらった。9時に一番乗りでATMでお金を下ろし、再びフェリー乗り場に向かった。幸い、10:30発の便には間に合い、フェリーに乗れた。
 新日本海フェリーの船は長距離船として有名で、私にとっては海のホテルとてっもいい感じであった。とはいうものの、毎度の2等客室なので、寝場所はあまりよくない。10:30に小樽を出発したフェリーは18時間かけ、翌朝の5:30に新潟に着く。フェリーには、お風呂もありデッキに出れば、日本海の素晴らしい世界が広がっている。ちょっとした休養だったが、とてもいい時間を過した。
 気持ちを入れ替え、本州の旅が再び始まる。そんなワクワク感で、夜を向かえた。
 

●24日目 8/17(月)、晴れ時々くもり、走行距離60.0㎞
 豊平公園(札幌市)→市内観光(羊が丘、北大、旭山、すすきのほか)→
 中島公園(札幌市)
●25日目 8/18(火)、晴れ時々くもり、走行距離57.7㎞
 中島公園(札幌市)→小樽→市内観光(運河ほか)→
 かつない臨海公園・フェリー乗り場(小樽市)
●26日目 8/19(水)、晴れのちくもり、走行距離0.0㎞
 かつない臨海公園・フェリー乗り場(小樽市)~新潟(新潟県)
  ⇒ここまでの走行距離1983.2㎞

<第12回へつづく・・・>

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8/17~8/19のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


クラーク博士像と私(札幌市羊が丘、1998年8月17日) 夕焼けの港に浮かぶフェリー(小樽市かつない臨海公園、1998年8月18日)

クラーク博士像と私<左>と夕焼けの港に浮かぶフェリー<右>(札幌、小樽)

第12回 快走!北陸路 <新潟~敦賀>

 フェリーの2等席で一夜を過し、日が明けきらない5時に新潟港に着いた。
 新潟に着き早々、事前に連絡を取っていた親戚のおばさん(母親の姉)の家に寄った。家は港から近かったが、港まで迎えに来てもらい、トラックでチャリを家まで運んでもらった。家に着いて、すぐに朝ごはんをご馳走になった。久しぶりに自分以外の手料理を食べたので、とてもおいしかった。ゆっくりはしたかったのだが、旅の先がまだまだあるので、食後少し休んだ後に出発をした。おばさんは、「途中で食べなさい」とイクラがたくさん入ったビンと明太子を渡してくれた。
 おいしい朝食で1日のエネルギーを取り、本州の旅を再開した。今度は、一路日本海沿いに西へと向かう。天気も晴れで、水田が広がる越後平野を快調に飛ばした。新潟からは、越後線と平行して走る国道116号線を南西に向かった。柏崎で国道8号線に乗り換え、ひたすら南西に走った。
 結局この日は、直江津手前の大潟に泊まることにした。大潟には、鵜の花温泉があると地図に書いてあったが、特に温泉街と言うわけではなく、温水プール付きのお風呂施設がある程度であった。また、このまちには、「人魚伝説」というものもあり、日本海の海が間近に感じるまちだった。日が落ちた頃に、海水浴場の海の家の脇にテントを張った。夕食は、ご飯を炊き、朝おばさんからいただいた、イクラを乗せ、イクラ丼にした。ボリュームがあり、新鮮でおいしかった。

 次の日は、昨晩の残ったご飯に明太子を乗せ、明太子ご飯で食べた。朝地図を見ながら、ちょっと距離があったが、金沢までを目標にした。
 直江津、糸魚川を順調に過ぎ、親不知の断崖を見た後は、富山県に入った。思ったよりもアップダウンはなく、平らな道が続く、富山のまちを国道のバイパスで過ぎ、あっという間に石川県に入った。
 金沢のまちに入ったのはもう日が落ち、夜になっていた。もちろん、金沢のまちを見ることは明日にして、まず、夕飯を食べることにした。繁華街に入り、丁度ラーメン屋があったので、ここでとんこつラーメンを食べた。銭湯も近くで見つけ、お風呂に入った。お風呂も入り、宿を探すことになったが、公園やテントが張れそうな場所を探す余裕がないほど疲れていた。そんな時、まちの香林坊近くの道路わきの東屋を見つけ、面倒であったのでここのベンチを借り、寝袋で寝ることにした。この日は、道が結構平らであったこともあり、メーターは、199.2kmとおよそ200㎞を指していた。もちろん、一日の走行最長記録更新!

 次の日、あまり寝心地が良くなかった東屋のベンチから起き、明るくなってまちに人が集まる前に、東屋を出発した。
 朝から前日いけなかった金沢のまちをまわった。金沢と言ったら兼六園が有名なので、兼六園にはよった。兼六園は、日本三大庭園の一つで、これで水戸の偕楽園に続き、2つ目をまわった。(ちなみにもう一つの庭園は、岡山の後楽園ですが、3つ制覇できたかは・・・これからの旅記録をお楽しみに!)
 金沢のまちを一通りみた後、昼前に金沢を出発して、更に南西に向かった。小松を抜け、福井県に入った。福井県に入っても、国道8号線の道はなだらかで、飛ばせる。しかし、福井のまちを通り抜け武生を過ぎた辺りから、一山越え、日本海沿いの道になり、急にくねくねとした道になった。
 そんな、くねくねした道を見て、前日のように飛ばすことは諦め、敦賀のまちで泊まることにした。国道からはずれ、街中に入り、浜辺でテントを張ろうとした。しかし、敦賀の浜辺には観光地の気比の松原があり、テントを堂々と張れそうな感じではなかったので、公園を探しながら、まず銭湯も探した。幸い銭湯が見つかり、お風呂に入った後、広いグランドがある公園も見つけた。この日は、この公園にテントを張って、一夜を明かした。
 

●27日目 8/20(木)、くもり時々晴れ、走行距離118.7km
 新潟(新潟県)→寺泊(新潟県)→柏崎(新潟県)→大潟(新潟県)
●28日目 8/21(金)、晴れ時々くもり、走行距離199.2km
 大潟(新潟県)→糸魚川(新潟県)→富山(富山県)→金沢(石川県)
●29日目 8/22(土)、晴れ、走行距離146.2km
 金沢(石川県)→小松(石川県)→福井(福井県)→敦賀(福井県)
  ⇒ここまでの走行距離2447.3km

<第13回へつづく・・・>

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8/20~8/22のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


親戚のおばさんからもらった新鮮なイクラをご飯に(新潟県大潟町、1998年8月20日) 金沢の兼六園(石川県金沢、1998年8月22日)

親戚からもらった新鮮なイクラをご飯に<左>と金沢の兼六園<右>(大潟、金沢)

第13回 受難の山陰ロード <敦賀~出雲>

 敦賀のまちから国道27号線に乗り換え、山陰路を行く。
 敦賀からは、海岸線沿いに走るが、山陰の海岸線は、非常に入り組んでいる上に、小刻みのアップダウンが続く。舞鶴からは国道178号線に乗り換え、ひたすら西に走り、天橋立の玄関まち、宮津に入った。
 天橋立は、言わずと知れた日本三景の1つで松並木が並ぶ3.6kmの浜の道で、自転車でも通ることができる。「三人寄れば文殊の知恵」の文珠堂で知られる智恩寺や名水百選の磯清水に寄る。特に風景がすばらしいと言うことではないが、海を横切る松並木の道を走るのは気持ちがよかった。この日は、天橋立近くの岩滝のまちのお風呂に入り、海岸でテントを張り泊まる。

 次の日は、丹後半島をエスケープして、国道312号線で西に向かった。久美浜からは、再び国道178号線に乗り西へ。高さとかつての列車の転落事故で有名な余部鉄橋の下をくぐり、鳥取県に入った。
 鳥取といったら鳥取砂丘が有名なので、砂丘に寄った。砂丘にはなぜかラクダが観光用でいたが、道路から海までの距離は結構あり、浜辺をトコトコと歩いた。浜辺といっても十数メートルの砂の山になっているところもあり、結構歩きにくい。何とか海の見えるところまで行くと、砂が目に入るほど風が強く吹きつける。砂丘は、この日本海からの強い北風と日本海の荒波が作ったといってもいいかも知れない。
 砂丘をひと回りした頃には、日はすっかり落ちていた。砂丘でテントは張れそうになかったので、砂丘からさらに西に向かった気高の海岸でテントを張った。気高のまちには幸い銭湯があったので、早速お風呂に入った。お風呂の後は、近くのお店でお弁当を買い、テントで夜の安らぎの時間を過す。
 静寂に包まれた浜辺からは、イカ釣り船の漁火(いさりび)がホタルのように遠く揺らいで見える。

 次の日は、山陰の海岸線沿いを更に西に向かうが、海に近いこともあり、風が強く吹く。しかも、時より西から強く吹き付けてくるので、やっかいな向かい風となる。自転車で走っていてつらいのは、登り道と向かい風だ。ペダルをこいでもこいでも前に進まない。いつもなら、20km/hのスピードで走れるはずなのに、10km/hぐらいにしかならない。こればっかりは、スピードを上げようにもどうしようもない。海岸線沿いの道の脇には、なしとらっきょう畑が並ぶ。仕方なしに、途中、お土産屋さんに寄り、なしを頬張る。
 もう少しで、島根県に入る米子市にこの日は泊まることにした。米子には、皆生温泉があるので、ホテルの日帰り温泉に入ることにした。テントは、海の家近くで張ろうとしたが、テントを張るがめんどくさくなり、海の家にあるベンチで横になり、寝てしまった。そんなことが原因で、翌日思わぬ災いを招いた・・・

 次の日、ベンチで寝たものの目覚めはよく、いつものように身支度をして、自転車を走らせた。朝食を取るため、近くのスーパーに寄ったときに、異変に気が着いた。
 「財布がない!」
 どうやら昨日寝ていた間に、誰かにスラれたようだ。昨日寝ているとき、財布を入れていたかばんを枕代わりにしていたにも関わらず、スラれてしまった。財布には、2万円ほどが入っていた。幸い、現金と郵便貯金のカードを別にしていたので、旅の資金を全部失うことにはならなかった。もし、現金と郵便貯金のカードをスラれていたならば、旅を一時中止したかここで諦めざるを得なかったと思う。「不幸中の幸い」とはこのことだと思い、郵便局で現金をおろし、旅を続けた。失った2万円は痛かったので被害届けを警察に出そうかと思ったが、いちいち警察に行き、経緯を説明する時間がもったいないと思い、諦めた。  財布をスラれたショックを受けつつも、西に自転車を走らせた。出雲のまちに入り、国道から外れ、出雲大社に寄った。出雲大社には、休憩するように境内を散策した。出雲大社に寄った後は、湖陵のまちで温泉に入り、近くの公園でテントを張った。


●30日目 8/23(日)、晴れ時々くもり、走行距離137.6km
 敦賀(福井県)→小浜(福井県)→舞鶴(京都府)→岩滝(京都府)
●31日目 8/24(月)、晴れ時々くもり、走行距離160.7km
 岩滝(京都府)→豊岡(兵庫県)→鳥取(鳥取県)→気高(鳥取県)
●32日目 8/25(火)、晴れ時々くもり、走行距離82.8km
 気高(鳥取県)→米子(鳥取県)
●33日目 8/26(水)、晴れ時々くもり、走行距離93.6km
 米子(鳥取県)→松江(島根県)→出雲(島根県)→湖陵(島根県)
  ⇒ここまでの走行距離2922.0km

<第14回へつづく・・・>

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8/23~8/26のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


餘部鉄橋(兵庫県香住町、1998年8月24日) 鳥取砂丘から日本海を望む(鳥取県鳥取砂丘、1998年8月24日)

余部鉄橋<左>と鳥取砂丘から日本海を望む<右>(香住、鳥取)

第14回 山陰の小京都を走る <出雲~北九州>

 湖陵のまちをでた後も、ひたすら国道9号線を走った。風もこの日は穏やかで、いつもの走行ペースに戻っていた。
 この日は、特に寄る所はなく、夕方には目標地の津和野のまちに入った。津和野のまちは山陰の小京都で、歴史的な建物も多く、文化人のまちとして有名です。
 夕方、津和野のまちをひと回りしたあと、まちにある鷲原八幡宮の流鏑馬場(後にそこが流鏑馬場と知りました)にテントを張り、まちの観光は翌日にして、早々に眠った。

 翌日、とても静かだったのでよく眠れ、目覚めがよかった。しかし、この日は、津和野のまちと近くの萩のまちを見てまわること決めていたので、かなりハードスケジュールで時間との勝負となった。
 起きてパンで朝食をとり、森鴎外の旧宅。郷土館と養老館へ。養老館は、森鴎外や西周が学んだ津和野の藩校だった。学校の形はなかったが、資料館になっていた。そのあと、稲成神社の山に登った。千本鳥居を通り、山の上の神社へ。でも特に、目立って面白いものはなかった。
 次にマリア聖堂へ。聖堂は小さく、その周りには像が立っていて、マリア像のほか、キリスト教の弾圧を受け連れてこられた人たちの像があった。最後は、森鴎外の資料館に。ビデオで鴎外の生い立ちを見て、津和野のまちを出た。

 県境までの道は、工事中で砂利の山道を450mの高さまで登った。萩までの50kmの道のりは、下りがほとんどだろうと思ったが、これが誤算だった。アップダウンの繰り返しで、かなりしんどかった。でもどうにか耐え、萩までの5㎞の所から下り道になり、やっと萩のまちに着いた。萩に着いてまず、松陰神社と松下村塾歴史館へ。歴史館の蝋人形の顔があまりにも変なのには驚いた。松下村塾を見た後は、民族資料館に寄ったがあまり面白くなかった。その後、城下町と萩城址に行ってみた。城下町というように町並みはまさに江戸時代を思わせる。
 まちを一通りし、まちの風呂屋に行き、風呂に入った。風呂屋のあばちゃんが、いままで雨が降った時などに、私のような旅人を何度も風呂場に泊めたことがあると話していた。ここ数日、日本に近づいていた台風の動きが気になっていたが、風呂屋のテレビで台風が西日本からそれることを知り安心した。この日は、萩の浜辺(菊ヶ浜)でテントを張った。浜は静かで、スパゲティーを茹で、真っ暗な日本海を眺める。
 右手には、港の灯り。左手には山が見えていた。

 翌朝の目覚めはあまり良くなかったが、早く起き、7時ごろには出発した。最後に城下町を再び通り、まちを後にした。
 まちを出た途端、急な登りが待っていた。この日も晴れて気温が早くも上がっていた。ただ、朝早く出発していたので、難所を陽が高くなる前に越えた。どうにか午前のうちに秋吉台に着いた。
 秋吉台は、有名なカルスト台地が広がるところで、鍾乳洞も多い。そこで、鍾乳洞に寄ることにした。まずは、大正洞へ。入口でポケットラジオみたいなものを渡され、ここから洞窟の案内が聞こえてきた。人は少なめだったが、洞窟内は涼しく、いろいろな形の鍾乳石を見ることができた。
 大正洞を出てからは、秋吉台のでこぼこした風景を見ながら、気持ちよく走った。やや下り気味の道で、信号も交差点もない、道が続いたこともあり、なんとこの時、61.5㎞/hという最高速度を出した。秋吉台の最後には秋芳洞に寄った。入場料が1240円(当時)とやや高かったが、寄った価値はあった。自然の力のすごさには驚いた。鍾乳石は何千、何万年もの時間をかけ作られた。自然は時間をかけ作られるもの。その自然を一度壊してしまったら、多くの時間をかけなければ、再び作られない。そう、自然は大切にしなければいけないと思う。

 秋吉台を出てから山道が続いたが、下関に着いてからやっと山道から別れた。下関から、ついに九州に行くため、国道から関門トンネルに入ろうとしたが、トンネルは自動車専用で、自転車は通れなかった。自転車は、人として扱われ、別の歩行者専用の関門トンネルを通らなければいけなかった。国道から山を一つ越え、もう一つのトンネルに着いた。通行料20円を払い、エレベーターでトンネルのある地下へ。トンネルの長さは、200~300mぐらいで、思ったより短い。トンネルを抜け、門司のまちに着いた。
 門司を過ぎ、今日は北九州の小倉に泊まることにした。しかし、小倉は大きな街で、泊まれそうな公園がなかなか見つからなかった。仕方なしに、住宅地に囲まれた小さな公園でテントを張ろうとした。テントを張る前にお風呂に入ろうと公園にいたおじさんに、近くに風呂屋がないかと尋ねたら、「近くに風呂屋はないね。そうだ、うちのシャワーを使ってもいいよ!」と言ってくれた。そうこう話しているうちに、「めしもまだだろ。今日は家で泊まってゆけ!」と結局、このおじさんの家に泊まることになった。本当に助かった。このおじさんの家は、昔風の下宿屋だった。でも、いまは下宿人はいないので、夫婦2人で暮らしているとのことだった。家に着いてからすぐにシャワーを浴び、焼肉をご馳走になった。本当におじさんに感謝したい。


●34日目 8/27(木)、晴れ時々くもり、走行距離168.8km
 湖陵(島根県)→浜田(島根県)→益田(島根県)→津和野(島根県)
●35日目 8/28(金)、はれ、走行距離72.5km
 津和野(島根県)→萩(山口県)
●36日目 8/29(土)、晴れ、走行距離126.1km
 萩(山口県)→秋吉台(山口県)→美弥(山口県)→下関(山口県)→
 北九州(福岡県)
  ⇒ここまでの走行距離3289.4km

<第15回へつづく・・・>

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8/27~8/29のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


稲成神社の千本鳥居(島根県津和野市、1998年8月28日) 萩の城下町を走る(山口県萩市、1998年8月29日)

稲成神社の千本鳥居<左>と萩の城下町<右>(津和野、萩)

第15回 寝不足との戦い <北九州~鹿児島>

 久しぶりの布団で寝心地がよかったが、よく寝付けず寝不足気味だった。 朝ごはんもご馳走になり、本当におじさんには感謝したい。人にいろいろやさしくしてもらうと、旅をしてよかったとなぁと感じる。
 出発するとき、おじさんとおばさんにあいさつをし、お世話になったお返しになしを2個あげた。2人と別れ、また1人となった。
 出発して早々、荷物を少し整理しようとコンビニに寄った。コンビニに着き、荷物の整理をしていると、1人のおじさんに声をかけられた。話してみるとこのおじさんも自転車によく乗る上、中国によく行っているようで、中国のことをあれこれ話してくれた。物価が安く1日500円で十分な生活ができること、ラーメンや餃子は20~30円だとか。
 一通り旅の話をしたあと、つぶつぶみかんジュースをもらい、再び走り出した。このとき、おじさんに黒崎から国道3号線ではなく、国道200号線で走った方がいいよと教えてもらったので、福岡市をバイパスするように熊本方面へ向かった。
 国道の200号線の道は、はじめは登りが多かったものの途中から川沿いの道になり、走りやすくなった。しかし、眠気が何度も襲ってきてつらかった。飯塚のまちで休憩ついでに買い物をし、大宰府の天満宮に向かうため、国道200号線から離れ、県道を走った。
 思わぬ山道に苦戦し、どうにか天満宮に着いたが、あんまり見るものはなく、がっかりした。すっかり、昼食を取り損ねたので、しかたなしに、なしを6個食べて遅い昼食にした。甘い梨はやっぱりおいしい・・・
 久留米を過ぎ、小栗峠を越え、山鹿のまちに着いた。今日は山鹿のまちで泊まろうと思っていた。それは、山鹿のまちが温泉で有名なまちであったので、朝から絶対に温泉に入ろうと決めていた。
 まちに着き、スーパーで買い物をし、ついでに店員にお風呂屋の場所を聞いたら、なんとお風呂はこのスーパーの地下にあるとのこと。これには驚いた。ともかく、お風呂に行ってみると、入浴料が130円だった。これにも驚いた。さすが湯のまち・・・
 一旦、夕食の買い物をし、夕食をとるため近くの公園でテントを張り、麻婆豆腐を作って食べた。そして、一目散にさっきのお風呂屋へ。「さくら屋」という名前で、やはり有名らしく、入浴者用のノートには「最高」や「ありがとう」などの書き込みで埋め尽くされていた。お風呂は、ノートに書いてある通り、建物もきれいでいいお湯だった。本当にいいお風呂にめぐり合った。

 翌日、寝起きが悪く朝食をとり、9時半ごろ出発した。どうも、ここ数日ぐっすり眠れない。なんでだろうか・・・
 山鹿のまちを出るとき、温泉の水をもらい麦茶パックを入れ、麦茶にした。
 まちを出てから寝不足からか足が重い。まったく、前に進まなかったが、やっとの思いで、昼前に熊本に着いた。
 熊本では、熊本城は見ておこうと決めていたので、城に寄ってみた。熊本城は、日本の三大城と言われているだけあって、立派なつくりだった。天守閣の前のやぐらから見た、天守閣は最高の眺めだった。熊本城は、西南戦争の舞台となっていたことは知っていたが、加藤清正が作った事は知らなかったので、ちょっと勉強になった。
 城を見た後は、まちのファストフード店でハンバーガーを食べたが、あまり乗り気がなく、再び南に向かい出発した。
 この日は、水俣まで行きたかったが、途中、小川町のスーパーで休憩をとったが、疲れで限界が来たのかベンチでウトウト眠ってしまった。
 そんなこともあり、八代に着いたのが5時ぐらいだった。八代のまちに着き、お風呂に入りたかったが、洗濯した服がなかったので、コインランドリーに寄り、服を洗濯してから、お風呂に入ることにした。しかし、コインランドリーでも眠くなり、お風呂に行くことや泊まる場所を探すのが面倒になっていた。そんなこともあり、このコインランドリーで眠ることにした。ここは、トイレがあり、クーラーが利いていて、その上、24時間営業だった。本当は、いけないことだが、買ってきた夕食を済まし、申し訳なく端っこで横になり、夜を明かした。

 コインランドリーで寝るのは、ちょっと無謀だった。
 やっぱり、寝付くことはできず、やっぱり寝不足。6時半に起きてしまった。しかし、この日は、早く起きないと鹿児島までの160kmを夕方までに走りきることができない。寝不足の身には、160kmははっきり言って地獄だ。
 眠気を覚ますように、八代を出てからは、山道が続く。しかし、幸いなことに空が雲っていたので、あまり熱くなく走りやすいコンディションだった。
 水俣までの50kmを飛ばし、10時ごろに着いた。水俣で朝食のおまけとしてパンを食べ、自分を元気付けた。水俣~阿久根~川内は、海沿いで、多少、アップダウンがあったが、走りやすかった。川内で遅い昼食とアイスを食べた。九州に来てから、アイスを食べることが多くなった。疲れているのか、暑いせいなのか・・・
 川内でゆっくりしてから、この日の山場の中川峠を越えることになったが、串木野までが思ったよりもてこずり、逆に中川峠の方がたいしたことがないように思えた。
 峠を越えて、ついに鹿児島に入った。鹿児島の市街地に着いたのは夕方5時。鹿児島からは、屋久島に行くことにしていたので、まず、フェリー乗り場に行き、フェリーの時間などを見に行った。フェリー乗り場は、奄美諸島などへの島への船便が多いこともあり、結構きれいだった。乗り場の近くには水族館もあり、港というよりも公園に近い。
 フェリー乗り場で、フェリーの時間と料金を確認した後は、近くの銭湯に行きお風呂に入った。前日、コインランドリーで寝てしまい入っていなかったので、とっても気持ちよかった。お風呂の後は、近くのスーパーでお弁当を買い、再びフェリー乗り場に向かった。フェリー乗り場で泊まろうとしたが、ちょっと不安だったので、乗り場にいたガードマンに聞いたら、水族館の入口玄関なら安全だと教わった。困った時は、やっぱり地元の人に聞くのが一番だ。
 結局この日は、港の水族館の玄関前のベンチで寝袋に包まり、眠った。次は、世界遺産の島、屋久島を目指す。


●37日目 8/30(日)、晴れ、走行距離148.1km
 北九州(福岡県)→飯塚(福岡県)→大宰府(福岡県)→久留米(福岡県)→
 山鹿(熊本県)
●38日目 8/31(月)、晴れ、走行距離82.1km
 山鹿(熊本県)→熊本(熊本県)→八代(熊本県)
●39日目 9/1(火)、くもり時々雨、走行距離172.6km
 八代(熊本県)→水俣(熊本県)→川内(鹿児島県)→鹿児島(鹿児島県)
  ⇒ここまでの走行距離3692.2km

<第16回へつづく・・・>

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8/30~9/1のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


大宰府の天満宮(福岡県大宰府市、1998年8月30日) 熊本城(熊本県熊本市、1998年8月31日)

大宰府の天満宮<左>と熊本城<右>(大宰府、熊本)

第16回 縄文杉と島のおっちゃんとの出会い <屋久島その1>

 鹿児島の水族館の玄関でぐっすり眠った次の日の朝は、快晴だった。港から は、煙を出す桜島も見えていた。この日、朝の第一便のフェリーに乗り、世界 遺産の島、屋久島を目指した。
 屋久島へは、世界遺産であるから行きたいこともあったが、樹齢が数千年と いう縄文杉に見に行くことが一番の目的であった。鹿児島湾の佐多岬を抜ける とフェリーの揺れも強さを増し、太平洋の大海原に出て来たことを感じていた。

 太平洋の波に揺られること4時間、ついに世界遺産の屋久島が見えて来た。九州最高峰の山、宮之浦岳が大きく、出迎えた。
 フェリーを降り、早速、港近くのスーパーで、昼食を買うことにした。フェ リーの中で縄文杉を見に行くルートを考えていたが、島に着いたその日のうち に、縄文杉に着くことが難しいと分かり、山の途中の山小屋で1泊することに した。そのため、夕食はもちろんのこと、翌日の朝と昼食の食材も買って行く ことにした。しかし、縄文杉までの道は、途中まではチャリで登れるが、ほと んどがチャリが入れない登山道だ。ザックを背負っての山登りなので、重くな るのを避けるため、荷物に残っていたスパゲティーとお米と親子丼のモトとふ りかけで何とか済ますことにした。

 買うものを選び終わり、山から戻って来て島を1周するので、山以外にもう1 泊するため、レジで店員さんに「島にキャンプ場はありませんか?」と聞いた。 そうしたら、たまたまレジに並んでいた地元のおっちゃんが、「俺のところの キャンプ場で泊まっていけよ!」と声を掛けてくれた。どこに泊まるかは縄文 杉を見て帰ってきたら決めることにしたので、このおっちゃんの連絡先を聞き、 山を降りたら、連絡することにして、このおっちゃんと別れた。

 買い物も済まし、縄文杉への道を走りはじめた。縄文杉へは、いくつかルー トがあったが、チャリで出きるだけ近づきたかったので、途中まで林道がある ルートを選んだ。しかし、屋久島の山が急峻なように、道もかなりの急勾配。 500m近くを一気に登る。その上、工事中の箇所が多く、結構体力を消耗した。
 2時間くらいかけ、やっとの思いで、林道の最後(白谷広場)まで登った。 ここには、車で来る登山客用に駐車場があった。駐車場にチャリを置き、必要 な荷物をザックに詰め、念のため柔軟体操をしてから登山道に入った。この日 は、途中の山小屋で1泊するため、2時間程度の登山の予定だった。しかし、途 中、さすが雨の多い島ということもあり、川はきれいで澄み、杉の木と苔のコ ントラストにしばらく、そこに佇み、自然の神秘を感じていた。
 夕方前には、この日に泊まる白谷山荘に着いた。山荘といっても従業員がい て暖かい布団があるようなものではく、誰でもタダで利用できる山小屋だ。こ の日は、私以外に大学の山岳グループが泊まっていた。彼らは、テントを持参 していたようで、小屋の近くでテントを張っていた。自分もテントを一応持っ てきていたものの、せっかくだから小屋の中で寝ようと、結局寝袋に包まり、 小屋の中で一晩を明かした。


鹿児島港からの桜島(鹿児島県鹿児島市、1998年9月2日) 屋久島の苔に覆われた渓谷(鹿児島県上屋久町、1998年9月2日)

鹿児島港からの桜島<左>と屋久島の苔に覆われた渓谷<右>(鹿児島、屋久島)



 翌朝、山岳グループが出発した後、朝食(親子丼)を作り、炊いて余ったご 飯とふりかけで、昼食用のおにぎりをつくった。朝食を食べ終わり、私も小屋 を出た。
 この日は、縄文杉を見た後、来た道を一気に下り、島の海岸沿いのキャンプ 場で泊まることにした。考えると結構ハードな登山コースだ。

 この屋久島には縄文杉のほかに、樹齢千年を遥かに越える天然の杉がたくさ んある。途中、切り倒されたまま残る巨木株のウィルソン株や大王杉などの巨 木を見ることができた。また、昔(江戸時代から戦後まで)に杉を運んだトロ ッコの軌道敷の道を歩いた。トロッコは現在、杉を運び出すためではなく、観 光用などとして時々走っているようで、一度だけ、観光客らしき人を乗せた、 トロッコが下っていくのに遭遇し、慌てて道を避けた。
 雨が多い、屋久島で有名だか、私が「晴れ男」なのかこの日も快晴で、登山 には最高の陽気だった。

 何度か休憩を取りながら、ついに目的の縄文杉の近くまで着いた。しかし、 残念なことに、縄文杉の周りには柵が設けられ、触ることが禁止されていた。 実は縄文杉は、世界遺産登録後、観光客の激増によって、縄文杉の根が踏まれ たり、近くの土が踏まれ固くなったため、木の保護のため、柵が付けられたよ うだ。
 しかし、その巨木は静に何かを語りかけるように、そこに存在していた。そ う、人の存在がちっぽけになるほど、昔からこの島に住んでいる長老のように・ ・・。

 縄文杉を見た後、後ろ髪が引かれる思いで、来た道を引き返した。下りは、 もちろんペースが速くなり、思った以上に早く下山できた。登山口の駐車場に 置きっ放しになっていたチャリに1日ぶりに乗り、500mの山を一気に下った。 登りと違い、海を眺めながらのあっと言う間のダウンヒル。疲れもぶっ飛ぶ。
 宮之浦のまちに再び戻ってきた時、山を登る前、スーパーで会ったおっちゃ んのキャンプ場に泊めてもらうため、聞いていた連絡先に、電話をしてみた。 そうすると、おっちゃんが出て、今日キャンプ場に泊まりたいから場所を教え てほしいことを伝えると、「キャンプ場はいま人がいないから、俺の家に泊ま らないか?」と答えてくれた。これには、もちろん私は「OK!」と答えた。

 おっちゃんに家の場所を聞き、早速、チャリで向かった。おっちゃんの家は、 島の南の方の集落にあり、30分ほどでおっちゃんの家に着いた。
 家のベルを鳴らすと、おっちゃんが笑顔で出迎えてくれた。家に着いた頃に は、もう夕方になっていた。そんこともあり、「まあ、夕食でも食べな」とい うことで、すぐにご飯を用意してくれた。おっちゃんは、どうやら一人で暮ら しているようで、自分で料理を作って、「準備している間に、風呂に入れ!」 と、お風呂にも入れてくれた。おっちゃんの親切さには、うれしかったが、お 風呂にもびっくりした。なんと今ではほとんど見ることがない、五右衛門風呂 だった。薪で沸かすもので、すでにお湯が沸いていた。もちろん、生まれて初 めて五右衛門風呂に入ったが、なんとなく熱そうだと思っていたが、入ってみ るとそうでもなく、決して広くはないのだが体の芯から、温まる感じがした。

 お風呂から上がると、島の魚の刺身(島の特産のトビウオの子「トビコ?」) をはじめ豪華な料理が並んでいた。すっかり、遠慮を忘れ、ご馳走になった。 そして、もちろんアルコールも入った。
 結局、この日は、おっちゃんと自分の旅について語り、酔っ払いながらおっ ちゃんの家の布団に入って眠った。

●40日目 9/2(水)、晴れ時々くもり、走行距離14.5km
 鹿児島(鹿児島県)~宮之浦(屋久島)→白谷広場・・白谷山荘
●41日目 9/3(木)、晴れ、走行距離26.7km
 白谷山荘・・楠川分れ・・縄文杉・・楠川分れ・・白谷山荘・・白谷広場→
 宮之浦→一湊
  ⇒ここまでの走行距離3733.4km

<第17回へつづく・・・>

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9/2~9/3のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


縄文杉への軌道敷(鹿児島県上屋久町、1998年9月3日) 縄文杉(鹿児島県上屋久町、1998年9月3日)

縄文杉への軌道敷<左>と縄文杉<右>(屋久島楠川分れ付近、縄文杉)

第17回 世界遺産の自然を味わう <屋久島その2>

 おっちゃんの家で泊まった次の日の朝も、おっちゃんの料理をご馳走になっ た。よくわからないケーキに始まり、ご飯とのり、漬物、さば節など。
朝から腹いっぱい食べ、8時に出発した。
 この日は、屋久島を1周することにした。一湊のおっちゃんの家から時計と 反対周りで周ることにした。しかし、はじめから登りの道が続く。その上、厚 い。さすが南国。暑さが本州のとは、違っていた。
 だらだらとペダルをこぎ、永田のいなか浜に着いて一休みした。
このいなか浜は、ウミガメが産卵のため浜に来る数としては、日本一と言われ ている浜で、確かにきれいだ。浜の近くには家も少なく、ウミガメもさすがに 浜を選んで来るのだろう。しかし、ここ数年数が減ってきているようだ。
 永田のまちを過ぎ、途中、永田岬の灯台に寄った。灯台には残念ながら登れ なかったが、ここから海を眺めると、本当に地球が丸いことが分かった。
 永田から栗生までは、国定公園と世界文化遺産地域で、山道が続いた。
途中、ヤクザルとヤクヤクシカに遭った。道を走っていると、山の中からザワ ザワと音がするので、びっくりしたが、よく見るとヤクザルと分かり、うれし くなった。ヤクザルは、小さくニホンザルと区別がつかない感じがした。
 山道と暑さにちゅっと苦戦しながらも大川の滝に着いた。
大川の滝は、日本の滝百選の百番目の滝だけあって、スケールが大きかった。
80mぐらいの落差があり、滝つぼもグリーンに澄んでいた。
大川の滝からちょっと行ったところに、名水百選の水があったので、ペットボ トルに入れた。


   屋久島の海と山(鹿児島県上屋久町永田、1998年9月4日) 大川の滝(鹿児島県屋久町、1998年9月4日)

屋久島の海と山<左>と大川の滝<右>(永田付近、大川の滝)



 栗生からは山道も無くなり、走りやすくなった。昼ごろ、平内に着いた。地 図で見ると、海中温泉と言う文字が気になり、寄って見ることにした。
 行ってみると数人の先客がいたが、すでに温泉から出ていた。温泉を見ると 温泉のちょっと先が海というより、岩場の一部が温泉となっていているという もの。誰もいなくなったので、貸切状態で入ると結構熱く、そんな入っていら れなった。
 温泉から出た後は、尾之間で弁当を買いお昼をとった。尾之間を過ぎたとこ ろにも名水百選の水があった。千と千尋の神隠しの映画の名前由来となった、 千尋の滝にも行きたかったが、山を登らなければならなかったので諦め、名水 百選の水汲み場のベンチでしばらく休んだ。
 そうこうして、おっちゃんの家がある一湊に着いたのは、5時を過ぎていた。 結局、この日もおっちゃんの家に泊めてもらうことになった。夕食は、前日に 続いて豪華なものだった。鯛に始まり、カレー、牛肉、ラーメンなどお腹いっ ぱい食べた後、おっちゃんの会社の社長さんも加わり、お酒をご馳走になった。 この社長さんは、屋久島での生活のことなどいろいろ話してくれた。私のこと を終始「いいヤツだ。」と言ってくれたのが、印象的だった。

 次の日もおっちゃんの料理をいただき、朝ゆっくりしてから、出発した。
本当に、おっちゃんにはお世話になり、いい思い出ができた。最後は、おっち ゃんと写真を撮り、おっちゃんの家を出た。おっちゃんとは、前日、昼食を奢 ってもらう約束をしたので、宮之浦の港で再び、会う約束をした。
 おっちゃんの家を出て、1時間もかからない家に宮之浦の港に着いた。鹿児 島行きフェリーの切符とお土産を買ったあと、おっちゃんと会い、近くのレス トランでカレーをご馳走してもらった。
 昼食後、私はフェリーに乗り込み、船の上からおっちゃんを見送った。おっ ちゃんとの別れを惜しみながら、フェリーは港を出た。微かに、おっちゃんが 泣いているように見えた。
 鹿児島に着いてからは、私は、一路、北にある鹿児島空港に向かった。そう、 目指すは、沖縄。
 鹿児島空港は、鹿児島市からかなり離れたところにあり、この日の那覇行き の飛行機は諦め、次の日の便で、沖縄に向かうことにした。
 加治木のまちの公園でこの日は泊まった。

●42日目 9/4(金)、晴れ、走行距離106.7km
 一湊→永田→大川の滝→平内→尾之間→安房→宮之浦→一湊
●43日目 9/5(土)、晴れのち曇り、走行距離39.3km
 一湊→宮之浦~鹿児島(鹿児島県)→加治木(鹿児島県)
  ⇒ここまでの走行距離3879.4km


<第18回へつづく・・・>

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9/4~9/5のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


平内の海中温泉(鹿児島県屋久町平内、1998年9月4日) お世話になったおっちゃんと(鹿児島県上屋久町一湊、1998年9月5日)

平内の海中温泉<左>とお世話になったおっちゃんと<右>(平内、一湊)

第18回 青い海と空を越えて <沖縄>

 加治木のまちで一夜を過し、翌日ゆっくりパンで朝食をとり、鹿児島空港へ 向かった。加治木のまちを出るときに、飛行機代のお金を郵便局のATMでおろ し、スピード写真を撮った。なぜ、写真が必要だったかというと・・・。
 1時間程で空港に着き、早速カウンターで、那覇行き飛行機のチケットを買 った。そう、このとき、朝撮ったスピード写真が必要だったのです。国内線飛 行機には、「スカイメイト」という「学割」に近い制度があり、22歳未満で当 日券に限り、半額近くでチケットが買える。そう、この登録に証明写真が必要 だったのだ。スカイメイトの登録(1,000円)も無事済み、ピーク時期を過ぎ ていたこともあり、那覇行きのチケットも簡単にゲットした。

 飛行機の便が手配できたところで、そそくさと自転車に積んでいた全ての荷 物をザックに詰め替え、自転車の前後輪の車輪を外し、輪行バッグに自転車を 詰めた。フェリーと違い、飛行機には自転車をそのままの状態では積めないの で、バラして、運んでもらうしかない。全ての荷物と自転車の合わせた重さは、 ゆうに40kgは越えていたに違いない。

 荷物も整理できたところで、チェックインをし機内に乗り込んだ。しかし、 私自身かなり緊張していた。なんせ、飛行機に乗るのが生まれて初めてだった のですから・・・。
 離陸の時間が迫り、飛行機が動きだした。シートベルトを締め、飛行機は離 陸のため、急加速をした。思わず、手と足を踏ん張ってしまった。初めての機 内で急加速は不意をつかれた感じだ。
 そうこうしているうちに、車輪が中に浮き、飛行機は空を飛んでいた。離陸 して数分で、ようやく踏ん張りも落ち着き窓の外の風景を楽しむ余裕が出てき た。
 那覇までは、1時間ちょっとのフライトだが、途中軽食とドリンクが出され、 ゆったりと沖縄での走りを思い描いていた。しかし、夏の気候柄か飛行機は乱 気流に入り、かなり揺れていた。初めてのフライトは、かなり気持ち悪いもの になった。そうこうして、すぐに着陸体制に入った。やっぱり力が入り緊張気 味。私の心配はよそに、飛行機は無事昼過ぎに着陸した。

 那覇空港で荷物を受け、空港の外に出ると沖縄のムッとした暑さに頭がふら ついた。さすが南の島、暑さが九州のものと違っていた。空港の入口で、自転 車を組み立て荷物をサイドバッグに戻し、早速、まちに出た。
 空港を出て、那覇のまちをひと回りした頃には、すでに夕方になっていたの で、早速、この日泊まれそうな公園を探した。結局、大きな公園であった奥武 山公園でテントを張ることにした。

 次の日、南国の熱帯夜の洗礼を受けぐっすり眠れず、気が付いたら陽が登り はじめていた。前日の夕食に作ったお好み焼きの残りを食べ、昼食用のサンド イッチを作り、公園を出た。
 那覇から一旦島南下し、時計と反対周りで島を走ることにした。滞在を3泊4 日と決めていたので、この日にある程度島を走る予定だったが、暑さでボーと してしまい、島を一周することはスケジュール的に無理があることが分かり、 諦めた。結局、名護市までの島半周程度を走ることにした。

 島の南部のひめゆりの塔や平和祈念堂に寄り、沖縄に残る戦争の爪あとを感 じた。改めて、日本は戦争の悲劇を起していけないと思った。
 途中、メーターが壊れ走行距離が測れなくなるトラブルがあったが、知念村、 中城村と順調に走り、この日は沖縄市の公園で泊まりことにした。
 この日は、暑さでやられ、夕食を自炊する気力がかなったので、近くのスー パーでおにぎりと惣菜を買って食べた。

 翌日、ぐっすりと眠れた。しかし、沖縄に来てから、お風呂に入っていなか ったので、なんとなく気持ちが悪い。朝食に、あんぱんやメロンパンなどのミ ニパンを8個食べ、暑くならないうちに出発した。
 この日は、朝から選挙カーがうるさかった。どうやら週末に県知事選をひか えていたようで、候補者が朝からまわっていた。
 具志川を通り、石川市に入ると英語の看板が目立つ。石川のまちに米軍キャ ンプがある関係で、車も「Yナンバー」の車が多く通っていた。
石川のまちを過ぎるとほとんど山道だったが、島の西に移り、ようやく辛さか ら解放された、折り返しの名護市には、11時に着き今度は那覇を目指し南下し た。途中、休憩がてら、許田の道の駅で弁当を買って食べた。

 その後、万座のビーチで泳いだが、浅く、珊瑚の死骸が足にあたり泳ぎにく かった。一泳ぎした後、近くの万座毛に寄り、エメラルドグリーンの海を眺め ていた。
 万座毛からは、かなり飛ばし首里まで走った。首里近くの坂は、本当に辛く、 急な坂道に愕然とした。
 坂を登りきり、首里城が見えてきた。しかし、現存の首里城は復元だと知り、 がっかりした。さらに守礼門の小ささに、落胆した。首里を下り、再び空港近 くの奥武山公園に向かった。この日もこの公園にお世話になった。公園に向か う前に夕食を公園近くのそば屋でソーキそばを食べ済ました。

 ソーキそばを堪能した後、公園でテントを張って寝ようとした時、外から 「ここで寝ない方がいいよ」という声に反応し、起きたら髭を生やした中年の おじさんがそこにはいた。ともかく、おじさんの言うとおりテントをずらし、 公園の東屋にテントを張った。例のごとく、旅の話をするといつものように、 話は盛り上がり、お酒が入った。おじさんは、元料理人で絵も描き、ボクシン グもやっていたようだ。
 結局、このおじさんといろいろ話してしまい、朝5時ぐらいまで沖縄の泡盛 で盛り上がっていた。

●44日目 9/6(日)、晴れ、走行距離29.6km
 加治木(鹿児島県)→鹿児島空港⇒那覇空港→奥武山公園(那覇市)
●45日目 9/7(月)、晴れ、走行距離5.8km(メーター壊れ。実際は+40km)
 奥武山公園(那覇市)→具志頭→知念→中城→沖縄
●46日目 9/8(火)、晴れ時々にわか雨、走行距離89.1km
 沖縄→石川→名護→嘉手納→首里→奥武山公園(那覇市)
  ⇒ここまでの走行距離4003.9km(メーター壊れ。実際は+40km)


<第19回へつづく・・・>

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9/6~9/8のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


青い海と万座ビーチ(沖縄県恩納村、1998年9月8日) 守礼門にて(沖縄県那覇市、1998年9月8日)

青い海と万座ビーチ<左>と守礼門にて<右>(万座毛、首里)

第19回 ユンヌの星砂の浜 <与論島~都城>

 那覇の奥武山公園で、朝方まで地元のおじさんと泡盛を飲んでいたため、ほ とんど眠れず、朝を迎えた。この日、3泊した沖縄を後にする。寝ていない状 態で、テントを片付け、鹿児島行きフェリーの出る那覇港へ向かった。
 私は、鹿児島に戻る前に与論島に1泊することを決めていたので、フェリー で鹿児島に直接戻らず、与論島に寄り、与論島から飛行機で鹿児島に戻る事に した。

 朝8時発の便で、那覇港を出た。フェリーで仮眠をとり、およそ4時間後の昼 ごろ与論島についた。
 与論島はとても小さなで、別名「ユンヌ」とも呼ばれ、島には、潮がひいた 数時間しか現れない砂浜の浮き島「百合が浜」がある。

 島に着き、港の反対にある百合が浜を目指し、そのまま島をグルッと一周し てまわることにした。途中、学校帰りの子どもたちに出会い、思いがけず、 「こんにちは」と声をかけられた。こちらも「こんにちは」と挨拶し返した。 何か島の人があたたかい。
 「ユンヌ楽園」という植物園で島の熱帯植物を見た後、サザンクロスセンタ ーという資料館に寄った。この島にも多く見られおみやげでとして人気のある 「星砂」の成り立ちを紹介していた。なんでも、この「星砂」は、浜辺の砂に 混じり星型をした粒上のものであるが、実は砂ではなく有孔虫という単細胞動 物の殻の一種であるそうだ。島では、百合が浜で多く見つけられるということ だったので、浜で見つけようと思った。

 サザンクロスセンターに寄った後は、与論民族村という資料館にも寄った。 こちらは、主に島の昔の生活を再現した家と農機具などがあり、それなりに楽 しめた。
 資料館を出て、ほどなくして、百合が浜から一番近くにある大金久海岸に着 いた。ここから、百合が浜へは沖合い1km以上あり、グラスボートに乗るか泳 いでいかなければ着くことができない。私は1km以上泳ぐ自信がなかったので、 グラスボートに乗り、百合が浜に向かった。グラスボートは百合が浜に向かう 途中止まり、海中の珊瑚や魚を見せてくれた。魚はもちろん熱帯系の色鮮やか な魚が多かった。次第に百合が浜に近づくにつれ、浜の白さに驚いた。また、 浜の周りは透き通る青い海。
 浜では、ボートが引き返すまで1時間ほど時間があったので、浜の近くの海 に浮かび時間を過した。星砂を何とか探そうとしたが、気が着いたら砂を入れ る袋を持っていなかったので諦めた。
 時間限定の浜から青い空と海が大きく広がっていた。ここでは、本当に時間 を忘れ、海に漂っていた。

 潮も満ち始め、百合が浜も小さくなりだしたころ、私を乗せたグラスボート は島に戻った。
 浜辺に戻ったあとは再び自転車に乗り、残りの島半分をまわった。どちらか というと後半の半分はあまり見るものがなく、あっという間に島を一周してし まった。
 この日は、島の役場近くのスーパーでパンを買い夕食にし、近くの浜でテン トを張った。薄暗くなった島の空と海がいつもより広く感じた。

 翌日、起きて驚いた。雨というより大雨で、雷が鳴っている上にすごい風。 雲はどす黒く積雷雲とすぐわかるものだった。まさに台風並みの嵐だった。
 ザーという雨の音で起されたが、その後は大変だった。強風が吹きつけテン トが飛びそうになった。浜にテントを張っていたので、テントを固定するペグ を打ち付けていなかったので、自分の体を大の字にして寝た状態で必死に風が おさまるのを待った。
 何度か雨がやみ、その隙に急いでテントをたたみ、雨が降り始めたら雨宿り をしながら、9時前に島の空港に着いた。空港といっても、小さな島の空港な ので、職員もお客も少なく、搭乗手続きカウンターも小さい。
スカイメイトで鹿児島空港行きのチケットを買い、雨ですっかりびしょびしょ になった荷物をザックにまとめ、自転車も輪行バッグに入れた。
 13時前発の便であったので、待合所でパンをかじりながら、鹿児島からのル ートを考え時間を潰していた。

 定刻通り、13時前に飛行機は離陸した。朝方の嵐は、すっかり止み、まるで なかったかのように、晴れ渡っていた。飛行機が離陸し、大きく旋回したとき に眼下に、与論島が広がっていた。やっぱり、小さな島だけれども、島を囲む 海は青く澄んでいた。
 与論島を飛び立ち1時間半で鹿児島空港に着いた。自転車を組み立てるなど していたら、もう夕方の4時を回っていた。
 ここから私は、一路九州を北西に走った。一度、海岸に出て隼人のまちから は国道10号線を走った。
 夕陽を浴び山道に苦労しながら、都城のまちに着いたころには、すっかり夜 になっていた。
 この日は、都城のまちの公園でテントを張って寝た。

●47日目 9/9(水)、晴れ、走行距離0km(メーター壊れ。実際は+30km)
 奥武山公園(那覇市)→那覇港~与論港(与論島)→大金久海岸→茶花海岸
●48日目 9/10(木)、大雨のち晴れ、走行距離32.9km(実際は+20km?)
 茶花海岸→与論空港⇒鹿児島空港→隼人(鹿児島県)→都城(宮崎県)
  ⇒ここまでの走行距離4036.8km(メーター壊れで、実際は+90km?)


<第20回へつづく・・・>

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9/9~9/10のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


グラスボートから見た百合が浜(鹿児島県与論町、1998年9月9日) 真っ白な百合が浜(鹿児島県与論町、1998年9月9日)

グラスボートから見た百合が浜<左>と真っ白な百合が浜<右>(与論島百合が浜)

第20回 清流四万十川を遡る <都城~高知>

 この日、朝の目覚めは早かった。なぜか、5時前には目が覚めていた。
この日は、飛ばせる気がしていた。四国まで約200km。行けるだろうか・・・。

 都城のまちを朝早く出発し、宮崎までの約50kmはやや登り気味ではあったが、 朝早かったことで、涼しいうちに走りきり、8時半には宮崎に着いた。
 宮崎を過ぎてからは、ほとんど平らで、順調に20km/hのペースで走り、昼の 1時には延岡に着いた。
 昼食を延岡のスーパーでとり、暑い時間帯に体力の消耗を避けるためとハイ ペースであったので少し体を休ませるために、昼寝もとった。昼寝で気分をす っきりさせ、2時半ごろ延岡のまちを出た。

 途中、北川の道の駅で、宮崎で抜いた自転車に乗った男の人に出会った。話 して見ると、福岡の大学の4年生(その後、お手紙を頂き、実は福岡の公務員 だったと申告いただいた)で、10日間で九州を一周しているとのこと。九州に 来てからなのか、それとも9月になったからなのか、自転車に乗って旅をして いる人にめっきり会わなくなった。
 彼と別れてからは、ちょっと飛ばし、佐伯までの約60kmを疲れながらも走っ た。佐伯からは、四国の宿毛行きのフェリーがあった。

 私は、日程が大幅に遅れていたこと(予定では、すでに四国を一周し広島に 着いているころであった)を考慮に入れ、再び関門海峡を越えるルートを半ば 諦め、四国を目指した。佐伯に着いたのが、夕方6時をまわっていたので、も うこの日の便はないだろうと思い、明日のためにフェリーの時間を確認しよう と、フェリー乗り場に向かった。しかし、幸いなことに夜7時ちょうどの便が あったので、思い切って乗った。

 こうして、私は九州をあとにして、四国に入った。宿毛に着いたは、10時。 もう、外は真っ暗。暗くまわりがよくわからなかったので、この日は、宿毛の フェリーターミナルで寝た。自転車の走行距離のメーターは、200kmを越え、 202kmを指していた。

 次の日、フェリーターミナルをあとにし、国道56号線を東に向かった。
朝の出だしは、快調で道もほとんど平ら。四万十川河口の中村のまちに着いた。 四国では、四万十川に沿って走りたいと思っていたので、中村の町からは四万 十川沿いの国道441号線に入った。

 途中、道が狭くなったり、古い民家が立ち並ぶ所になったりと、随分今まで とは趣の違う風景になっていった。しかし、必ず脇には四万十川が流れ、川風 が吹く。
 四万十川で有名なのが、沈下橋。普段は橋そのもので川に浸かっているわけ ではなく、大雨で増水した時に、川に浸かってしまうが欄干がないため、橋は 流されにくい橋だ。実際、橋をみると欄干はなく、車が1台通るのがやっとの 橋で、増水でも流されずいたこともあり、かなり年期が入ったものも多かった。

 そんな四万十川の流れといくつものの沈下橋を横目に見ながら、川を上って いった。中村のまちから西土佐村を抜け、3時前には四万十川中流の十和村に 入り、この日は早めに十和村のキャンプ場に泊まることにした。
 このキャンプ場は、四万十川の中州の河原にあり、いつでも泳げる。なので、 早速川で泳いだ。しかし、清流と呼ばれている四万十川の中流でも、やや濁っ ていた。小さい魚は、見つけられたが鮎は見つけられなかった。

 そうこうして午後の時間がゆっくり過ぎていき、夕食にお好み焼きを作る。 沖縄での失敗を生かし、今度はうまくいった。
 夜は、静かな川の音を聞きながら眠りについた。

 翌朝、まわりの山が日の出を遅らせていたため、日があまり射さないうち涼 しい内に出発をした。この日の目標は、高知までの約100km。
 実は、翌日大学のゼミの合宿が始まるため、24時間後には宿のある伊豆に行 かなければならなかった。合宿を欠席することも考えていたが、私がゼミ長で あり合宿先の宿との折衝をしていたため、休むことは無理だった。旅の出発当 初、仙台からテストのため電車で一旦東京に戻ったが、今回は高知空港の飛行 機を使い、東京に向かうことにした。

 十和村から大正町を過ぎ、窪川のまちからは四万十川と別れ、海岸沿いに走 った。海岸に出てからは、須崎、土佐のまちを順調に通過するが、すでに日は 落ち始め、坂本竜馬の銅像があることで有名な桂浜に着いた頃には、日が沈み 掛けていた。
 薄暗い中、桂浜の坂本竜馬の銅像の前で記念写真を撮り、少しでもこの日の 内に高知空港に近づこうと思い、高知の市街地をバイパスし、東へ向かった。

 夜の7時を過ぎ、もうあたりは真っ暗で、空港に近づくと規制のためか建物 もなく街灯も少なく、一層怖さを感じた。
 南国市で夕食と銭湯でお風呂を済ませ、どうにか空港のそばまで来たが、翌 朝の便で東京に向かうため、近くの物部川橋の下でテントを張り、夜を明かし た。

●49日目 9/11(金)、晴れ時々曇り、走行距離202km
 都城(宮崎県)→宮崎(宮崎県)→日向(宮崎県)→延岡(宮崎県)→
 佐伯(大分県)~宿毛(高知県)
●50日目 9/12(土)、晴れ、走行距離?(メーター壊れ。実際は+90km?)
 宿毛(高知県)→中村(高知県)→西土佐(高知県)→十和(高知県)
●51日目 9/13(日)、晴れ、走行距離?(メーター壊れ。実際は+120km?)
 十和(高知県)→窪川(高知県)→須崎(高知県)→南国(高知県)
  ⇒ここまでの走行距離4238.8km(メーター壊れで、実際は+300km?)


<第21回へつづく・・・>

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9/11~9/13のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


坂本竜馬像と私(高知県高知市、1998年9月13日)

坂本竜馬像と私(高知市桂浜)

第21回 チャリの旅の一休み?! <高知~松山>

 高知の物部川の橋の下で眠った次の日の朝は早く、起きて何も食べず、前日 通過した高知空港に向かった。
 飛行機に乗り、ゼミ合宿の宿泊先の伊豆に向かうため、朝早く東京に着いて いる必要があった。愛用のチャリを空港の駐車場に置いて、荷物をまとめカウ ンターに向かった。もちろん、スカイメイトを使い、朝一便の羽田行きのチケ ットを安く購入した。
 ゼミの仲間へのお土産(芋けんぴ)を空港で買い、飛行機に乗った。
1時間ちょっとで羽田に着いたがチャリがないだけに何か物足りない気がした。 ゼミ合宿の会場は、伊豆の伊東だったので、電車に乗り伊東に向かった。
 伊東で仲間と合流したが、やっぱりみんな「焼けたね~」の一言。相変わら ず、みんなも元気なようだった。

 合宿は、2泊3日。勉強が目的だったが、宿の温泉やおいしい料理で、すっか りいい息抜きになった。もちろん布団で寝たのだから、体には十分な薬になっ た。

 2泊3日の合宿もあっと言う間に終わり、最終日、仲間に羽田まで車で送って もらい、飛行機で再びチャリの待つ高知に向かった。飛行機は高知行きの最終 便であったので、高知に着いた時には、もうあたりは暗くなっていた。駐車場 に停めていたチャリも無事で、3日前に暗いながらも走った道をまた走り、再 び、物部川橋で一夜を過した。

 翌日、布団から寝袋に戻ったので寝つきが悪く寝坊気味だったが、気合で起 きた。
 南国からは再び、国道55号線を東に走った。安芸を過ぎ、室戸岬に向かった。 室戸岬まではほとんど平らの道で、海も見ながらの余裕があった。  室戸岬でちょっと休憩した後、今度は北西に向かい走った。この日の道は、 特にアップダウンがなかったので、すんなり距離を稼げた。夕方前にはこの日 の目標地日和佐に着いた。

 日和佐に着いてからは、テントを張れそうな場所を探すため、地元に人に尋 ねたら、お遍路さんをはじめ旅人に泊まれる場所を開放しているところがある と聞き、その場所を尋ねてみた。行ってみると、一軒の料理屋さんで、駐車場 には1台の古いバスが置いてあった。お店の人に恐る恐る尋ねてみると、この ご主人が、駐車場のバスを改造し、簡易宿にしてお遍路さんや遠くから日和佐 のまちに来る旅人に開放しているとのこと。日和佐のまちには、四国88ヶ所の 札所の1つ薬王寺があるため、お遍路さんの姿が絶えることがないまちで有名 なようだ。早速、ご主人に事情を話したら、快くこのバスに泊まっていってく れと、返事をいただいた。
 宿がどうにかなったところで、近くの銭湯に行った。お風呂に入り、バスに 戻り残っていたパンで夕食を食べようとした時、お店のご主人が差し入れで、 お店の料理を持ってきてくれた。本当にありがたかった。ご主人の旅人思いの 温かさが身にしみてうれしかった。
 私のほかこのバスには、男のお遍路さん一人が泊まった。このお遍路さんの お話を聞いたり、私の旅の話をして夜は更けていった。

 翌朝、いっしょしたお遍路さんは、すでに出発していたようで、すっかり寝 坊気味で、ご主人に挨拶をして、出発した。
 日和佐から、さらに国道55号線を北上し、徳島方面へ向かった。
朝は曇り空だったが、阿南を過ぎ徳島に着いたころから、雨が降り始めた。徳 島のまちで何か観光をしようかと思ったが、特に思い当たるものがなく、その まま、徳島のまちを通過した。

 徳島からは国道11号線に乗り換え、鳴門海峡の大鳴門橋を横目に見ながら、 今度は四国を西に向かった。雨が結局止まないまま、高松に着いた。高松では、 栗林公園で泊まろうと思ったが、どうやらテントを張ることが無理とわかり諦 めた。結局、この日は雨がしのげるまちの集会場の軒先でテントを張った。

 翌朝、すっかり雨は止んでいた。起きて朝食がなかったので、朝早くテント を片付け、少し走ってからパンで朝食をとった。
 朝食後、ペダルがかなり重く感じていたので、後輪を見たら、空気が半分く らい抜けていた。どうやら、タイヤに小さな穴が開き少しづつ空気が抜けてい たようだ。本当は直しておくべきだが、めんどくさかったので、空気入れで空 気を入れただけで済まし、先を急いだ。
 後輪を気にしながらもどうにか、琴平に着いた。琴平のまちには、「こんぴ らさん」こと金倒刀比羅宮がある。私はこの「こんぴらさん」にお参りするた めに寄ったのだ。金倒刀比羅宮への入口でチャリを置き、本宮への階段を登っ た。この階段、うわさには聞いていたが、結構段数があった。1,000段以上は あっただろうか・・・。でも、意外に疲れず、一気に本宮に着いた。本宮から は瀬戸大橋が見えたのには、感動した。

 「こんぴらさん」にお参りをした後、30分かけ登った階段を10分ちょっとで 降り、再び自転車に乗った。後輪を気にしながら出発。途中、四国では本場の 讃岐うどんを一度食べたいと思っていたので、香川県の端っこの豊浜の食堂に 入り、うどん定食を食べた。手打ちでこしがあり、てんぷらも付いてきた。な かなかうまく、小樽以来のうどんは格別だった。

 うどんをお腹いっぱい食べ、松山までの残り約100kmを5時間で走ることにし た。途中、土居と西条で休み、西条から松山までの道が辛く、松山市内に入っ てから、疲れがどっと出た。ペダルがやたらと重く感じた。松山の中心部に入 ってからは、真っ先に道後温泉に向かった。温泉というからには、温泉宿が何 件かあるのかと思いきや、この「道後温泉」1軒のみであった。温泉は、種類 がいくつかあったが、一番安い階下のお風呂に入った。お風呂上りに、温泉内 にあるよく夏目漱石が使ったと言われている坊ちゃんの間を見学した。

 この日は、温泉のすぐ近くにある道後公園でテントを張り、一夜を過した。
松山からは、四国を離れ再び本州に上陸することとなる。

●52日目 9/14(月)、晴れ、走行距離?(未記録。実際は+5km?)
 南国・高知空港(高知県)⇒羽田空港(東京都)+++伊東(静岡県)
●53日目 9/15(火)晴れのち雨、走行距離0km
 *大学のゼミ合宿のため、伊豆の宿で一休み(ちゃんと勉強もしてました)
●54日目 9/16(水)、晴れ、走行距離?(未記録。実際は+5km?)
 伊東(静岡県)―羽田空港(東京都)⇒高知空港・南国(高知県)
●55日目 9/17(木)、晴れ、走行距離?(未記録。実際は+160km?)
 南国(高知県)→安芸(高知県)→室戸岬(高知県)→日和佐(徳島県)
●56日目 9/18(金)、曇りのち雨、走行距離?(未記録。実際は+140km?)
 日和佐(徳島県)→阿南(徳島県)→徳島(徳島県)→鳴門(徳島県)→
 高松(香川県)
●57日目 9/19(土)、晴れ、走行距離?(未記録。実際は+160km?)
 高松(香川県)→琴平(香川県)→伊予三島(愛媛県)→西条(愛媛県)→
 松山(愛媛県)
  ⇒ここまでの走行距離4238.8km(メーター壊れなどで、実際は+770km?)


<第22回へつづく・・・>

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9/14~9/19のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


こんぴらさんからの眺め(香川県琴平市、1998年9月19日) 道後温泉坊ちゃんの間にて(愛媛県松山市、1998年9月19日)

こんぴらさんからの眺め<左>と道後温泉坊ちゃんの間にて<右>(琴平、松山)

第22回 台風直撃の災難!<松山~備前>

 前日、松山から広島行きのフェリーの時刻をフェリー会社に電話で聞いてい た。それによると、朝は、4時、6時、7時・・・と思ったより朝早くから便が 出ているようで、7時40分の便に乗るため、6時に起き、朝食を軽く済ませ、道 後公園を後にした。
 道後公園から松山港まで7、8kmあったが、7時ごろには乗り場に着き、少し 乗り場で休んでからフェリーに乗り込んだ。フェリーには、朝早いためか乗用 車の乗り入れはなかったが、代わりにリヤカーが1台私のチャリと一緒に乗り 込んでいた。リアカーも立派な車だから当然、フェリーに乗り込めるが、フェ リー内の乗用車に見慣れた私にとっては、ちょっと意外な車だった。

 フェリーは途中、呉により3時間ほどで、広島港に着いた。広島港から宮島 に行くフェリーがあったが、手持ちのお金がほとんどなく、松島、天橋立と見 てきた日本三景だが、最後の宮島を今回諦めることにした。
 広島港から市街地に入り、まず原爆ドームのある平和公園に訪れた。原爆ド ームを見てから、記念館に入り、原爆と戦争の資料を見た。沖縄の平和記念館 とは少し違うタッチで、戦争に触れる事ができたが、特に被爆した人の写真を 見るのが非常に辛かった。
 記念館ではじっくり時間をとったので、いつの間にか正午は過ぎ2時になっ ていたので、公園内で、スパゲティーを茹で昼食にした。昼食を食べ、2時過 ぎ、広島のまちをあとにして、私は自宅の横浜を目指し東にチャリを走らせた。

 この日は、三原を目標地としていたが、広島のまちを出てから登りの道が続 き苦戦し、かなり手前の東広島のまちで泊まることにした。残念ながら、お風 呂屋は、このまちになかったが、コインランドリーでたまった洗濯物を洗濯し、 夕食を買ったスーパーの近くの公園でテントを張り、米を炊き親子丼を夕食に した。公園から人影が少なくなったころ私は眠りについていた。

 翌朝、うだうだしていて、起きたら7時だった。ちょっと焦り気味で、昨日 炊いて余ったご飯をお茶漬けにして食べた。朝食を食べていると、近くでゴル フの練習をしていたおじさんが話し掛けきた。広島県名物(特にこれから寄ろ うとしていた尾道について)の話をしていたら、9時になっていたので、慌て て公園を出発した。おじさんと別れる時に、なぜだか、テレカと野菜をいただ いた。
 東広島を出て、三原を過ぎ、朝おじさんと話した尾道に着いた。尾道は、古 寺と文学のまちで有名で、お寺をいろいろおじさんに紹介していただいたが、 この日私は、岡山まで行こうとしていたので、尾道でまち散策する時間がなか った。仕方なしに、私は尾道に入ってからは公園で昼食をとるため、少し休む だけで、まちの散策は次回の旅にとっておくことにした。
 尾道を1時に出発し、倉敷には3時には着いていた。しかし、倉敷からは渋滞 にはまり、思うように走れなかった。

 そうこうして、岡山のまちに着いたが、市の中心部にある後楽園に着いたの が、6時。さすがに空いていなくて、翌日後楽園を訪れることにした。後楽園 の近くで銭湯を見つけ、さっぱりしてから、夕食の買出しに出かけた。しかし、 スパゲティーが余っていることに気づいたので何も買わず、先にテントを張れ そうな場所を探した。
 気が着いたら、岡山城の駐車城の片隅にテントを張っていた。城はライトア ップされ、きれいに闇夜に浮かび上がっていたが、寝る頃にはポツポツと雨が 降り出してきた。夜ラジオで、台風が本州に近づいていてることを知ったが、 台風の進路がどうやら、この近くらしい・・・。風が強いわけでもなく、雨も パラパラという程度。嵐の前の静けさとはこういう状態なのだろう・・・。

 翌朝、雨は止まず、私はラジオに釘付けだった。台風はやっぱり、近づいて いるようだ。この日は、本当に出発すべきか迷ったが、テントにいてもどうし ようもなかったので、雨の中、テントをたたみ、チャリを走らせた。

 岡山のまちを出て程なく、雨は本降りとなってきた。さらに、風も昨日まで のとは明らかに違う風で、思うように前に進ませてくれない。
 備前のまちに入ったところで、横殴りの雨となり、道路は川のようになって きた。横から容赦なく吹き付ける風と雨で、まったく進めなくなった。「これ はヤバイ」と思い、近くのスーパーに駆け込んだ。時間は、昼前であったが、 このスーパーで昼食を買って、スーパー内にある休憩所で食べながら、ここに あったテレビの台風情報を眺めた。台風は、ちょうど兵庫に上陸したようで、 まさに直撃・・・。結局、このスーパーから3時間ぐらいは出ることができず、 じっと休憩所でテレビの台風情報を見ながら休んでいた。

 幸い、台風は速度が速かったため、休んでいる3時間で離れいった。雨もほ とんど止んだところで、スーパーを出て、再び私は、東を目指した。しかし、 この日は、台風の直撃で足止めを食らい、ほとんど足を進めることができず、 岡山から30kmほどの日生のまちの公園で泊まることにした。

●58日目 9/20(日)、晴れ時々雨、走行距離?(未記録。実際は+60km?)
 松山(愛媛県)~広島(広島県)→東広島(広島県)
●59日目 9/21(月)晴れ時々雨、走行距離?(未記録。実際は+140km?)
 東広島(広島県)→尾道(広島県)→福山(広島県)→倉敷(岡山県)→
 岡山(岡山県)
●60日目 9/22(火)、大雨のちくもり、走行距離32.1km
 岡山(岡山県)→備前(岡山県)→日生(岡山県)
  ⇒ここまでの走行距離4270.9km(メーター壊れなどで、実際は+970km?)


<第23回へつづく・・・>

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9/20~9/22のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


広島の原爆ドーム(広島県広島市、1998年9月20日)

広島の原爆ドーム(広島市)

第23回 ゴール間近の受難!<備前~大阪>

 前日、台風のためほとんど進めなかった分、この日は、飛ばして大阪まで行 こうと予定を立てた。しかし、台風が過ぎてもぱっとしない天気。何か嫌な予 感・・・。そんな思いで、朝食をかじり、日生のまちを出た。
 日生から海沿いに走り、赤穂、相生のまちを抜け、再び国道2号線に戻った。 姫路の手前あたりから国道2号線がバイパスだらけの道(一部有料道路で自転 車も通れない道もあった)になり、やや遠回りをするところが多くなってきた。

 国道2号線の道に少し戸惑いながらも順調に明石のまちに入り、横目で瀬戸 内海を眺めながら、明石海峡大橋の下をくぐった。気が付けば神戸のまちにな り、「今日は大阪までいけそうだ」とかなり調子づいていた。しかし、そんな 時に限って何か起こるのだ・・・。
 神戸・須磨海浜公園の近くに差し掛かり、「大阪に着いたら何しようか。や っぱり、たこ焼を食べて、通天閣に行って・・・」、そんな考えごとをしてい た時、事故は起きた。
 信号のない交差点。左手には、団地へと続く小さな道。何気なく、すーと直 進をしたら、私の右横から車が接近。私はとっさに左にハンドルを切ったが、 間に合わず、車にぶつかり、次の瞬間、私の体はチャリから飛んでいた。一瞬、 頭が真っ白になった。でも、すぐさま、意識はあり死んでないことが分かった。 私は、しばらく、倒れたその場を離れることはできなかったが、自分の足で立 った。

 この事故は、お互いの前方不注意と言えばそれで終わりだが、俗にいう左折 の巻き込みだ。左折の車の運転手からは、真横やや後ろの私が死角に入り、私 もぼーとして、車のウインカーを見ていなかったのだ。
 幸いにして、頭は打っておらず、傷も腕と足の擦り傷で済んだ。しかしなが ら、ぶつかった衝撃で車のドアは凹み、私のチャリの前輪が曲がっていた。ま もなくして、車の運転手が呼んだ警察官によって、実況見分と事情聴取が行な われた。
 今まで自転車で車と事故ったことはなく、今回の旅もかなり慎重に走ってい たに・・・。事故の様子から警察官は、示談にしたらどうか言ってきた(一応、 頭が気になるから病院は行ったほうがいいとも言っていたが)。私も、気が動 転してか怪我が思ったよりたいしたことがなかったのか、結局、示談の提案を のみ、車の運転手と話し合い、保険の請求をお互いしないことにした。私のチ ャリの前輪の曲がりも、ガタガタが残るもののどうにか直し、車の運転手と別 れた。

 その後、私は事故ったショックと、チャリの前輪が気になり、この日、大阪 に行くことを諦め、近くの須磨海浜公園で休むことにした。海浜公園をひと回 りし、芝生のいい場所でテントを張り、近くのスーパーで夕食を買った。しか し、事故のショックとチャリのことが気になり、まるっきり眠れなかった。

 次の日、ほとんど寝れなかった状態で、公園を後にした。
朝出発前、昨日から気にしていたチャリの前輪をチェックしたら、やはりと言 うか不安は的中し、空気は抜け、とても走れる状態ではなかった。しかも、予 備のチューブも切らしていたので、自転車に修理に出さなければ直らないこと に気が着いた。
 しかし、自転車屋は近くになく、また朝からは自転車はやっていないので、 前輪がパンクした状態で東へと走り出した。ただ、人が乗って走るだけでも負 荷がかかるのに、パンクした状態の上に、さらに荷物が載るとなると、ペダル をこいで進むのは不可能なのである。

 私はパンクしたチャリを押して、時にはパンクした前輪を浮かせながら、歩 き始めた。チャリを押すこと2時間ほど兵庫駅近くの自転車を見つけ、前輪の ホイールごと交換してもらった。
 交換してもらった前輪はタイヤの新しくなったので、朝の苦労がうそのよう に快調に走れるようになった。

 こうして、事故のショックから私もチャリ立ち直り、あっという間に兵庫県 を越え、大阪に入った。大阪では、たこ焼きも食べ、通天閣にも行って・・・ と思っていたが、事故のため、予定が狂い、さらに市内の地図もしっかり確か めていなかったので、道頓堀に行くのがやっとだった。
 結局、道頓堀の有名なグリコの看板をバックに写真を撮り、近くの屋台でた こ焼きを夕食にして、テントは大阪城公園の入口にあった芝生の上で張り、夜 を明かした。
 大阪からゴールの横浜の自宅まであと、600km。旅の終わりを感じると、急 に家に早く帰りたくなってきた。もう気が付けば、旅のゴールは間近・・・。

●61日目 9/23(水)、曇り時々雨、走行距離101.2km
 日生(岡山県)→相生(兵庫県)→姫路(兵庫県)→明石(兵庫県)→
 神戸(兵庫県)
●62日目 9/24(木)雨のち曇り、走行距離53.3km
 神戸(兵庫県)→尼崎(兵庫県)→大阪(大阪府)
  ⇒ここまでの走行距離4425.4km(メーター壊れなどで、実際は+970km?)


<第24回へつづく・・・>

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9/23~9/24のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


道頓堀のグリコの看板前で変なポーズ(大阪府大阪市、1998年9月24日)

道頓堀のグリコの看板前で変なポーズ(大阪市)

第24回 日本一周の旅、ゴールへ!<大阪~横浜>

 前日、ほとんど大阪の街中を見ることができず、大阪城公園の芝生で一夜を 過し、朝を迎えた。
 大阪から横浜までの約600kmを3日間で走ることを、この日の朝決めた。この 日の内に、名古屋まで行ければいいと思い、私は大阪城公園を出発した。
 天気は相変わらず、冴えず雨模様・・・。

 大阪からは、横浜を目指しひたすら国道1号線を東へ向かうだけ。
大阪から国道1号線を北西に向かい、京都には昼前に着いた。京都には中学校・ 高校と修学旅行で2度も訪れ、大体市内の観光地は見てまわっていたので、市 内で一休憩をしたが時間をとっての観光はしなかった。
 休みを取り、京都の清水寺脇の峠を越えたら、すぐ琵琶湖のほとりの大津に 入った。琵琶湖に沿って走る区間は短かったが、なんとなくいままで同じよう に海に沿って走っているような気分になった。
 琵琶湖とも別れを告げ、滋賀県と三重県の境となる鈴鹿の峠を目指した。
 しかし、この鈴鹿の峠までの道がだらだらとした登り坂で、なおかつ止まな い雨で大分苦しめられた。

 鈴鹿の峠をようやく越したら、反対に下りの道なのであっという間に四日市 のまちに着いた。
 四日市のまちも順調に走っていたが、桑名の手前で後輪の空気が抜け始め桑 名のまちに入る手前でとうとうタイヤに空気がない状態にまでになっていた。 どうやら後輪のタイヤの溝がかなり磨り減り、チューブのパンクを招いたよう だ。予備のチューブも切らしていたため、近くのショッピングセンターでタイ ヤとチューブを買い、後輪を新品に入れ替えた。

 そんなこんなで、タイヤの交換作業が済んだ頃には、時刻はすでに夕方の6 時を回っていた。
 この日、名古屋までいければと思ったが、ちょっと手前の桑名で泊まること にした。タイヤを替えてからは、桑名のまちで銭湯を見つけお風呂に入ってか ら、テントが張れそうな公園を探した。程度のいい公園が見つかりスーパーで 買った夕食を食べ、早めに寝た。

 翌日、桑名のまちを出て、名古屋の中心部をバイパスする国道23号線を東に 走った。
 木曽川など大きな川を橋で越え、再び国道1号線に戻った。ここからまた、 国道1号線をひたすら東に走った。岡崎、豊橋を越え、静岡県に入った。
 浜名湖のあたりは、高校生の時、飛騨高山への旅の帰りに走った道と同じな ので、「ここで休んだな~」と思い出すこともあり、なんとなく懐かしくなっ た。

 浜松を過ぎ、高校の時の旅では、海沿いに御前崎を通るルートを走ったが、 今回はできるだけ最短距離で走るためそのまま国道1号線を走った。
 しかし、浜松から静岡までの国道1号線はバイパスとなる箇所が多く、時に は自転車が通れない自動車専用道路となるところもあった。しかし、雨でほと んど標識が見えずらくなっていたことやかなり飛ばしていたこともあり、その まま自動車専用道路を走ってしまった。

 スイスイとバイパスも走り、夕方近くになったので、藤枝のまちでこの日は 泊まることにした。浜松からのバイパスの走りも手伝ってか、この日の走行距 離は180kmを越えた。
 藤枝のまちではテントが張れそうな藤枝駅前の公園を見つけたところで、近 くのスーパー銭湯を見つけお風呂に入った。
 旅も残すところあと1日・・・。旅を出たとき、どうなることやらと思った が、無事に家に帰れそうだ。でも、もっと旅を続けていたいが、家にも早く帰 りたい。そんなことを思うと、寝袋に入ってからも寝れなかった。

 結局、ほとんど眠れず翌朝を迎えた。旅の最後の日となるこの日は、最後で ありながら一番ハードなコースとなった。なぜなら、横浜の自宅までの距離が 200km近くある上、天下の険と言われる箱根の峠を越える道だからだ。旅の最 後に相応しく、走り甲斐のある道だ・・・。

 眠れないことが幸いして、藤枝を6時前には出ていた。
 天気は朝から雨。しかし、走りは順調。気が着けば、静岡、富士を抜け、昼 前ごろには沼津に入っていた。沼津近くの三島からは箱根への山道が続く。そ う、箱根は天下の険と言われるくらい急な登りが続く峠だ。

 三島の定食屋でとんかつ定食を頼み、腹ごしらえをして、天下の険に挑んだ。 三島から箱根峠までは約15km。言うまでもなくほとんど上り坂。雨も影響して 漕いで進むにはかなり辛い。
 幸い暑くなかった分、体力は消耗せず1時間半程度で峠に着いた。峠を越え、 国道1号線の最高地点を越すと後はひたすら下り。登りの苦労がここで報われ る。しかし、雨が無情にも下りの心地よい気分を半減させた。さらに、週末と 言うことも箱根から帰る車の渋滞で側道を大型バスでふさがれ、私のチャリも 渋滞にはまる場面もあった。

 どうにか箱根を越え、小田原に入り馴染みの景色が目に入ってくるともう、 帰ってきた感じで懐かしくなった。
 小田原からは、海沿いを走り、平塚、藤沢と抜けた藤沢に入った時にはもう 夕方の6時を過ぎていた。藤沢からは、大阪から走ってきた国道1号線から離れ、 真っ直ぐ北へ向かう国道467号線を自宅方面へ向かった。
 雨と夜の暗さで視界が悪いのだが、ここまで来ると家のゴールまで目と鼻の 先。まったく苦にならない。

 大和市に入ってからは、中原街道に乗り換え、自宅まで数キロとなる道を旅 のいろいろなことを思い出しながら走った。雨と一緒に旅をしたと言ってもい いくらい、雨に降られる日が多かったが、本当に無事に帰れたことが一番のう れしさだった。出発の時は、最悪、死を覚悟していたがそんなことが昔のこと に思えた。

 そんな見慣れた道を30分走り、ついに自宅に着いた。雨の中、家族が出迎え てくれた。「何より無事でよかった」と両親は久々にみる我が子を随分丁寧に 扱ってくれたことがとても印象的だった。

 ・・・こうして、横浜の自宅を出発してから65日間、約6,000kmに及ぶ日本 一周の旅は終わりを迎えた・・・。

●63日目 9/25(金)、雨時々曇り、走行距離166.3km
 大阪(大阪府)→京都(京都府)→大津(滋賀県)→四日市(三重県)→
 桑名(三重県)
●64日目 9/26(土)曇り、走行距離183.1km
 桑名(三重県)→岡崎(愛知県)→豊橋(愛知県)→磐田(静岡県)→
 藤枝(静岡県)
●65日目 9/27(日)雨時々曇り、走行距離190.0km
 藤枝(静岡県)→静岡(静岡県)→沼津(静岡県)→小田原(神奈川県)→
 平塚(神奈川県)→自宅(横浜市保土ヶ谷区)
  ⇒ここまでの走行距離4964.4km(メーター壊れなどで、実際は+970km?)
   ⇒全走行距離約6,000km!


<第25回へつづく・・・>

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9/25~9/27のルート地図(クリックすると拡大された地図が出ます)


ゴール直後の私とチャリ(横浜市保土ヶ谷区、1998年9月27日)

ゴール直後の私とチャリ(横浜市の自宅前)

私の好きな音楽

 みなさんはShania Twain(シャナイア・トゥエイン)」というアーティストをご存知でしょうか。
 最近は、よく彼女の曲が日本のCMソングなどで聴かれるようになりました。彼女の曲を初めて聴いたのは、自転車でアメリカ西部を走っていたころでした。私は、日本からポケットラジオを持って行きむこうのFMを聴き、流れていた彼女の曲に感動してしまいました。 (FMの局は日本と違い、かなりの田舎でも10局以上はあり、一日中聴いていても飽きないほどです。)
 彼女の曲は「カントリー」系なので、実にアメリカの西部と情景が合うんですよね。同じように「カントリー」系の「Faith Hill(フェイス・ヒル)」や「Tim McGraw(ティム・マックグロウ)」にもすっかりはまってしまい今でもむこうの「カントリー」系の音楽が好きです。
 日本での「カントリー」系の音楽の知名度がいまいちですが、日本で彼女らの音楽がブレイクするのも時間の問題かもしれません。今後注目の歌手たちです。
 一聴(?)の価値がある音楽ですので、ご存じない方は是非聴いてみてください。(そういえば、フェイス・ヒルとティム・マックグロウは夫婦なんです。恐るべしの2人。)

※この書き込みは、2003年1月2日にされたものを再アップしています。

「インタープリター」という職業

 「インタープリター」という職業をみなさんご存知でしょうか?
 「インタープリター」を一言で言うと難しいのですが、簡単に言うと(私の解釈では)、「自然のメッセージを伝える人」で「自然と人間の橋渡しをする人」です。
 もともと、この「インタープリター」とは、「通訳者」や「解説者」という英語なのですが、19世紀末、冒険者と共にアメリカの大自然を相手にしたネイチャーガイドが、この「インタープリター」という職業の誕生といわれています。(『インタープリテーション入門』(下記参照)より)
 その後、アメリカの国立公園が作られる中で、自然の専門職「インタープリター」が多く誕生しました。(国立公園内では、森林や生態系の管理などを含めた職業「レンジャー」と呼ばれることがあります。)
 日本でも、国立公園などは古くからありましたが、「レンジャー」と呼ばれる職業の人は、実はほんの一握りの人しかいません。そこで、活躍するのが、「インタープリター」なのです。(ここでの、「レンジャー」という職業の説明は省きますが、簡単に言うと環境省が認めた人が「レンジャー」といったところです。)
 ただ、「これは、~の木です。覚えてください。」とか「この地形は、~が原因で、この様になりました。」といっても、名前や事実を伝えているだけで、その事物の(科学・歴史・文化などの視点を含んだ)背景を伝えなければ、自然のメッセージを伝えたことにはなりません。その事物にどんなバックグラウンドがあり、それが私たちの暮らしにどの様に影響(関係)しているのか伝えてこそ、「インタープリター」なのです。だけど、その伝え方は、いろいろ。言葉、歌、絵、演劇、時には沈黙・・・。要は、自然の事物を通して、“奥底にあるメッセージ”を伝えることができればよいのです。

 さて、「インタープリター」という職業に一時期(実習生としてですが特に資格が必要でありませんで一応)、就いた私ですが、HNK教育テレビの「わたしの生きる道」という番組で、「インタープリター」のお友達(KEEP協会の竹越さん)が紹介されています。(再)放送は、9月10日(水) 15:30~15:50です。放送を逃した方は、番組ホームページ(こちら)をご覧下さい。

 もっと、「インタープリター」という職業をもっと知りたい人は・・・

   【本】
   インタープリテーション入門―自然解説技術ハンドブック
   『インタープリテーション入門―自然解説技術ハンドブック』
    (キャサリーン レニエ 他 著・日本環境教育フォーラム監訳、小学館)
   就職先は森の中―インタープリターという仕事
   『就職先は森の中―インタープリターという仕事』
    (川嶋 直 著、小学館)
   【リンク】
   インタープリテーション協会
   キープ フォレスターズ スクール

※この書き込みは、2003年9月5日にされたものを再アップしています。

「夢」と「天職」

 みなさんは、子どもの頃どんな夢を持っていましたか?

 私は小さい頃、親の影響もあり、自然が好きでした。小学生の頃は、特に星が好きで、夢中で星座を覚え、友達と横浜・桜木町にあった神奈川県立青少年センターのプラネタリウム(現在は、閉館しまったようだ)に足繁く通ったものだった。この頃の夢はもちろん、天文学者であった。
 その後、成長と共に、夢は自然からどんどん離れ、この頃おりしもテレビゲームブーム。そんな影響から、ゲームプログラマーになりたいと思い始め、自作のゲームのシナリオや絵コンテを書いていた。ゲームのシナリオを書いていくうちに、小説家になろうと路線変更することもあった。
 高校生になるともっと現実的になり、人に関わる仕事に就きたく、学校の先生を目指しとりあえず勉強したが、最終的に進んだ大学の専攻はなぜか経済学部・・・。
 大学では、一般企業のサラリーマンでもいいと思ったが、通学の満員電車でサラリーマンに嫌気がさし、一時期、現実離れした内閣総理大臣やチャリの旅の経験から冒険家になろうかと真剣に考えたこともあった。
 しかし、やはり人を育てる仕事に就きたいと考え、3年ごろから専攻外の教育学や児童心理学などを猛勉強し、教員採用試験を受けた。だが、現実は厳しく1次(筆記)試験であっけなく落ちた。その後、青年海外協力隊で環境ボランティアをしようと考えたものの語学力に自信がない上、海外から戻った時には、仕事を探さなければいけないことから協力隊の応募を諦め、結局、一般企業の就職活動を行った。
 就職活動の面接では、自己アピールでチャリの旅のことを話したが、異口同音のように「それはすばらしい。けど、あなたには私たちの会社ではなく、他の場所があるのでは・・・」との返事が返ってきた。「やはり、自分は企業にいる人間ではない!」。そんな気持ちから、一般企業への就職も諦めた。そこで、もう一度原点に立ち返り、子どもの頃から好きな自然や環境に関わる仕事で、YMCAのボランティア経験を生かすべくNPO/NGOの団体に資料請求を出し、手探り状態でNPO/NGOへの就職活動をした。そんな中、日本環境教育フォーラム(実は、こちらさんにも資料請求をだしていたのだが、職員採用はないと言われ、代わりに会員にならないかと勧められ会員になっていた)の会報の中に「インタープリター募集」のチラシが入っていたので、「インタープリター」という職業をあまりよく知らなかったが、自然の中で仕事ができ、子どもの教育に携わるNPOということで、「NPO法人メタセコイアの森の仲間たち」への職員応募をした。
 ダメ元で応募したら、見事採用されてしまい、岐阜の地で「インタープリター」の卵として職に就いた。「インタープリター」という職業も特殊だが、NPOで働くというのも学生の頃には、想像だにできなかった。人生は、どうなるか分からないものだ。
 岐阜では、契約が半年であったので、再び横浜に戻った。「さあー、どうしようか?」と思っていた矢先、岐阜でたまたま縁があり、仕事を一緒にした今のNPO「かながわ環境教育研究会」の代表から仕事をしないかと誘われ、現在に至った。

 自分の「天職」とは何かまだはっきり分からないが、「天職」に近づいている事は間違いないと確信している。少なくとも、一般企業のサラリーマンでなくてよかったと感じている。それは、「誰の、何のために働くのか」というミッションが企業とNPOでは少し違うからだ。「世の中を少しでも良くして、自分のために働く」。そんな仕事こそが自分の天職だと最近感じている。

 みなさんは、いま就いている職を自分の「天職」だと言えますか?
もし言えなければ、もう一度「誰の、何のために働くのか」を考えてみませんか?

※この書き込みは、2003年10月1日にされたものを再アップしています。

私の好きな音楽 その2

 最近は、忙しくて音楽をじっくり聴く機会があまりなくなった。
 私は、どちらかと言うと洋楽が好きで、学生の頃は、1960年代~70年代のアーティストの歌をなぜだかよく聞いていた。ビートルズやローリングストーンズを始め、ボブ・ディランやエリック・クラプトンの渋いブルース、サイモン&ガーファンクルやカーペンターズなどのソフト路線、レッド・ゼェッペリンなどのハードなものまで聴いていた。
 最近は、洋楽ではアメリカの西部にチャリ旅行をしてから、カントリー系の音楽が好きになった。
 ここのところ、テレビのCMやドラマにリバイバルブームなのか60年代~70年代の洋楽が使われてる。車のCMでは、ジョン・レノンの「Woman」やエリック・クラプトンの「Layla」などが流れ、ドラマでもカーペンターズの「Top of The World」が主題歌で使われている。このウェブサイトのタイトルでもあるボブ・ディランの「Blowin' In The Wind」も携帯電話会社のほのぼとしたCMにカバーで流れている。
 60年代~70年代の洋楽は、私たちの20代にとって「懐かしい」というより「新鮮なもの」とよく言うが、私にとってはこれらの音楽は、どちらかと言うと「懐かしい」。でも、これらの音楽は、きっと世代を超えてこれからも聴き継がれるだろうなと感じている。

   Bob Dylan「The Freewheelin' Bob Dylan」のジャケット
   Bob Dylan「The Freewheelin' Bob Dylan」のジャケット。
   ジャケットをクリックすると「Blowin' In The Wind」ライブ版が聴けます。
   (HMVの試聴サンプルサイトより、詳しい聴き方はこちら

※この書き込みは、2003年10月4日にされたものを再アップしています。

「横浜市」は「区」のまとめ役で十分

 横浜市も中田市長体制になり、随分変わってきた。
 「官から民へ」。そういう合言葉で、情報公開をしながら行政改革を進めている。市長もNPOや市民活動への理解があるようで、そういう市長の考え方にも賛同できる。
 横浜市は、言わずと知れた大都市。350万人もいる日本一の人口を有する市だ。しかしながら、まちとして考えた場合、あまりにも大きすぎる。政令指定都市でため、区が設けられていて、横浜市は私の住む保土ヶ谷区のほか、全部で18区ある。区の人口は、だいたい20万人前後で、面積もそこそこある。なので、はっきり言って、人口と面積を考えると1つの区で市レベルのまちになってもおかしくない。でも、区の行政管轄は市が握っているため、区の行政職員などは市の職員であり、区長も選挙で選べないどころか市の職員が区長となっているのが現実だ。
 「横浜」は確かに、1つのブランドとなっているため、住んでいる私たちは「浜っ子」として誇りを持つ人がいる。私も生まれも育ちも横浜なので「浜っ子」ということになるが、残念ながら「保土ヶ谷区」で生まれ育ったという意識が薄い。(実を言うと区境に近く、「保土ヶ谷」という地名から離れたところで暮らしているからかもしれないが)
 しかし、横浜市の行政も実に官僚的で、中央集権的だ。その上、役所本体の職員のほか外郭団体などの職員が多く、財政も決してよくない。「もう区でやっていったらいいんじゃないの?」と最近よく思う。区長も誰だか良く分からない上、選挙がないので選べないし、市の職員が区長というのも真の民主主義ではない気がする。
 自分のことは自分でして、自分で解決できない地域の問題は地域で解決する。地域で解決できないことは、区で何とかする。区でできなければ、市で。市でできなければ、県。そして、国へ、世界へと。
 このところつくづく、「神奈川県保土ヶ谷区」にならないのかなぁ~と思う。

※この書き込みは、2003年10月13日にされたものを再アップしています。 

行政の外郭団体を潰せ!

 2003年11月に、NPO研修・情報センターの世古一穂さんをラブスサポートセンターの主催講演会「協働のデザインを考える」でお呼びした。
 世古さんは、日本のNPO法(正式には、特定非営利活動促進法)を作った立役者と言われ、行政とNPOとの協働については日本屈指の人だ。世古さんの話は、岐阜でのインタープリター時代に研修のため岐阜県庁で行政職員に紛れ聴いたのが初めてだった。世古さんは非常に切れる語り口で、このとき、行政とNPOとの協働のあり方や「ファシリテーター」という役割を初めて考えさせられた。
 それ以来、NPO職員として行政との協働の場で仕事を行って来た。ラブスサポートセンターの理事の協働という意識の共有化と大和市で勧めている協働事業推進会議の整理のきっかけとしてお呼びした。サポートセンターの理事のほか大和市の行政職員、市内および近隣のNPO・市民団体関係者が参加した。
 世古さんの話は、やはり切れる話だった。話の中で印象的だったのは、次のようなことだった。
 ――非営利・官の「行政」を第一セクター、その対極にある営利・民間の「企業」を第二セクターとすると、従来「三セク」と言われていた行政の外郭団体は、第三セクターではなく、1.5セクターである。現在、非営利・民間のNPOや市民団体(市民セクター)が本来の第三セクターであり、行政の外郭団体(いわゆる「三セク」)に奪われている営利・官のセクターを取り返さなければ、日本のNPOの自立とは言えない。――
 行政の外郭団体は、やたらと多い。○○市○○財団とか○○県○○公社とか。また、福祉系の最大団体の社会福祉協議会(通称:社協)の存在もあやしい。日本のNPOは、これらに戦い、本来の「三セク」を奪い取ることができるかNPOの底力の見せ所だ。

   「協働」について語る世古さん
   「協働」について語る世古さん

※この書き込みは、2003年11月14日にされたものを再アップしています。 

「週末起業」

 最近、『週末起業』(藤井孝一著、ちくま新書)という本を読んでいる。まだ、80ページ程度しか読んでいないが、今の私にとってとてもためになる本だ。というのも、私自身、週末にではないが「起業」をしたいからだ。
 私の頭の中では大体したいことが固まっているが、まだ秘密にします。まずは、「個人商店」(つまり「自営業」)でやってみたいけれど、そう世の中は甘くないと思う。今の職場の経験を生かし、しばらくは「二足のわらじ」で、「週末起業」を始めようと思っている。
 とりあえず、「週末起業」のスタートは、2004年1月1日と決めた。やりたいことが見つかったのだから少しチャレンジをしようと思う。

   『週末起業』
   『週末起業』

※この書き込みは、2003年11月30日にされたものを再アップしています。 

写真家の星野道夫さんのこと

 寒くなるこの季節になると、なぜか写真家の星野道夫さんのことが気になる。皆さんの中で、星野道夫さんをご存知の方もいらっしゃると思います。
 星野道夫さんは、アラスカの自然(特にオーロラ)を撮られた写真家で有名ですが、数年前、熊に襲われ亡くなられたことを、私は非常に残念に思っている。今年は、北海道でオーロラが見られたとのこだが、星野さんが写真に収めたアラスカの風景には、いくつものドラマがあったことを、星野さんの著書『旅をする木』(星野道夫 著、文春文庫)で知った。星野さんは写真家でありながら、文章もすばらしく、自然のメッセージを星野さんの遺した本を通して感じることができる。
 寒くなるとオーロラが見たいというのもあるが、冬になるとなぜか星野さんの写真を見たくなる。星野さんの遺したメッセージを私は、この時期になると心に留め、冬の寒さを感じている。

   『旅をする木』
   『旅をする木』
    (星野道夫 著、文春文庫)

※この書き込みは、2003年12月13日にされたものを再アップしています。

写真家の星野道夫さんのこと その2

 星野道夫さんの写真展が、先日、星野さんのふるさと千葉県の市川市で行われていたので見に行きました。今年の春に、横浜でも開かれていた写真展ですが、日程が合わず半年待ちました。
 星野さんのふるさとということもあり、スタッフの方々やお客さんが「星野さん、お帰りなさい!」とい雰囲気でなにか会場の暖かい気持ちを感じました。たまたま、会場には星野道夫さんの奥さんの直子さんがいらっしゃいましたが、残念ながらお話することはできませんでした。
 写真はどれも素晴らしく、アラスカの動物(ホッキョクグマやアザラシ、カリブーなど)とアラスカの風景(氷河や森、オーロラなど)が、アラスカという大自然に私を誘ってくる。私は、寒いところは嫌いだが、アラスカだけは別だ。死ぬ前に、宇宙よりも一度は行ってみたい場所だ。
 星野さんは、アラスカの自然と人の暮らしを撮り続け、写真という媒体で、自然からのメッセージを伝えた。このコーナーで、「インタープリター」という職業を紹介しましたが、星野さんはまさに、私が尊敬する「インタープリター」でもあります。
 星野さんの本の『旅をする木』にこんなお話があります。
 満天の星空の下、オーロラが出るのを待っていた星野さんとその友人との会話で、友人がある人から「こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろう。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」と質問されたそうだが、それに対して星野さんは、「写真や絵がうまかったらキャンパスに描いてみるが、やはり言葉で伝える」と答えた。しかし、友人は「その人はこう言うんだ。自分が変わってゆくことだって・・・その夕陽を見て、感動して自分が変わってゆくことだと思うって」と続け、星野さんに話している。
 私も自然の持つメッセージを言葉や写真で伝えてきたが、心から感動して、「自分が変わること」が、いまいちわからなっかたが、星野さんの写真や言葉に出会い、少し私は変わった気がする。そう、何かに感動する自分を感じ、変わっていく自分をありのまま受け入れたい。

   【リンク】
   星野道夫公式サイト
   星野道夫さん関連リンク (「Colors of Nature」より)

※この書き込みは、2003年12月23日にされたものを再アップしています。 

「マイバッグ」と「マイ箸」のお話

 みなさんは、「マイバッグ」と「マイ箸」という言葉を聞いたことがありますか?
 読んで字の通りですが、自分のバッグや箸のことを表しています。そんな、「マイバッグ」と「マイ箸」を私は、いつも自分の持ち歩いているかばんの中に入れ、必要な時に使うように心がけています。

 「マイバッグ」や「マイ箸」というのは、「環境」とかなり関わりがあります。「マイバッグ」運動は、最近では大手スーパーや行政などでも盛んにアピールされ目に付くようになりました。自分のかばんを持って買い物をすることは、かばんに愛着を持てるほかに、レジ袋をもらわないで済むことになります。
 レジ袋は、もらうと結構便利で、買ったものを袋で運んだ後も、ゴミ袋にしたり、また何かを入れる袋として重宝します。しかし、よく考えると、皆さんの家では、レジ袋が余っていませんか?そう、レジ袋はほとんどが余ってしまって、結局、買い物後、なにも使わず捨てていませんか?実は、レジ袋の大半であるポリ袋は、家庭から出されゴミのおよそ1割と言われています(ちなみに、家庭から出されるゴミは、紙類、生ゴミ、ポリ袋などのプラスチック類の順に多いそうです)。
 一人一人では、たいした量ではないのですが、これが地域や市町村、国のレベルで集めるとすごい量になります。ポリ袋は、リサイクルが可能ですが、リサイクルにはかなりエネルギーやお金を費やします。そのため、ほとんどが焼却処分されてしまうのが現状です。ダイオキシン対策が進んだといっても、燃やせば地球温暖化につながる二酸化炭素を出す上、原料は石油などの化石燃料ですから、自然に土に帰るには気の遠くなるような歳月が必要になります。このままポリ袋を使い続けて捨てる仕組みは、私たちや地球にとっていいものなのでしょうか?
 また、「マイ箸」を持つことは、外食をする時に割り箸を使わないことは、ゴミを減らすことにつながりますが、余計な森林材や竹の伐採を食い止めることができます。日本で現在出回っている割り箸のほとんどが、中国などアジアのシラカバやエゾマツなどの木や竹が使われています(最近では、国産のスギなど間伐材を使ったものも出回っていますが、非常に少数です)。また、割り箸も紙パルプや炭などにリサイクルする動きも出てきましたが、ポリ袋同様、エネルギーとお金を費やしてしまいます。「マイ箸」は、持ちやすく自分の手にフィットし、いつも好きな時に使えるので愛着が湧いてきます。

 私たちが美しい地球を守るためにできることは、微力ながらいろいろあると思います。「マイバッグ」や「マイ箸」を持つことは、その一つの方法なのかもしれません。

   私が持ち歩いている「マイバッグ」と「マイ箸」
   私が持ち歩いている「マイバッグ」と「マイ箸」

※この書き込みは、2004年2月8日にされたものを再アップしています。

花見で残すのは

 「ひとり旅のつくり方講座(海外編)」の会場となっている横浜市旭区の「こども自然公園」は、桜の名所として有名です。
 先週末、散歩ついでにこの公園に出かけてみると、見事に桜が見ごろになっていました。しかし、桜も咲けば、人も見に来るもの。桜の花に負けないぐらいの人で公園は埋め尽くされていた。これだけなら、1年の内のほんのひと時の花見で許せるのだが、ちょっと気になるのが、公園のごみだ。
 花見のごみは持って帰るのがマナーだが、公園にゴミ箱があるとつい捨ててしまうのか、それともみんなも捨てているから自分のごみはたいしたことがないと思い捨ててしまうのか。公園のゴミ箱は昼の時点で、入りきらず溢れていた。悲しいと言うか、桜の花を見たあとゴミの山を見て、ちょっと幻滅してしまった。
 花見で残すのは、ゴミではなく、桜の花を愛でる日本人の風情にしましょう。
桜が見ごろで 人出も多い
   「こども自然公園」の桜が咲き、花見で人だかり。
   
ゴミ箱は溢れて それでも捨てていく人はたくさん
   花見で残すのは、ゴミではなく、桜を愛でる風情。

※この書き込みは、2004年3月29日にされたものを再アップしています。

未納年金には高い支払利息がつく?!

 さて、突然ですが、みなさんはちゃんと年金払っていますか?
 先日、年金制度改正法案が、与党と野党の茶番劇によって、いつの間にか国会で可決されてしまいました。一時期の年金未納問題は収まりつつありますが、年金制度の複雑さや問題は出されたものの、いまだ年金制度は分かりにくいものです。
 そんなおり、私もNPOの職場を3月に退職したこともあり、先日、国民年金への切り替えをしました。実は、私も未納ではないのですが、学生の頃、稼ぎがなく保険料を払うことが出来ないので学生の納付免除をしていました。ついでなので、それを追納しようと役所で手続きをしたら、保険料の額にびっくり。なんと、5年前の保険料が1ヶ月15,560円。本来なら1ヶ月13,300円のところが、年600円の延滞金が加わっている。
 ここ数年は長引く不況のため、超低金利時代が続いて、銀行に預けても受け取り利子は1%にも満たない。それなのに、延滞金の支払利子が約4.5%とは・・・。保険料の追納は、10年間遡って出来るが、もし期限ぎりぎりで払った場合、元の保険料の約1.5倍を払わなければならないことになる。
 延滞金が年に600円付くことは、だれも教えてくれなかった(保険事務所が出している「情報満載 あなたの年金」という手引きには、「3年目から当時の保険料に加算がつきます」としか書かれていない。どこが「情報満載」だ!)。本当に、ひどい制度だと言わざるを得ない。
 みなさんは、この制度をどう思いますか?

※この書き込みは、2004年6月7日にされたものを再アップしています。

ひとり旅のつくり方講座(海外編)

「ひとり旅のつくり方講座(海外編)」

海外編の報告書ができました。


★講座の報告書は、こちらをクリック!(PDF:168KB)

*冊子での報告書(A4版全20ページ、カラー写真)は、郵送料込みで1部500円でお譲りしております。
なお、白黒写真の場合は1部400円、2部以降は1部毎に150円増(白黒写真は100円増)です。
お申込は、こちらのフォームか自分と出会う旅工房へメール/電話にてお申込下さい。

★講座のチラシは、こちらをクリック!(PDF:38.5KB)

PDFを読むにはアクロバットリーダーが必要です。
アクロバットリーダーのダウンロードは下のバナーをクリック。


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  ひとり旅のつくり方講座(海外編) 参加者募集 【4/24・25、横浜】
    ~自分だけのひとり旅をプロデュースしませんか~
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 「ひとり旅」と聞いて、「ひとり旅したいけど、私にはできそうにない・・・ 」とか「ひとり旅って、寂しくないの?」、「なんでわざわざひとり旅?」そ う思っていませんか?

 「ひとり旅」って、旅先での人との出会いがあったり、普段体験できないで きごとがあったり、結構おもしろいものです。行き先や泊まるところ、どんな 乗り物に乗るのか決めるのもすべて自由で自分次第。でも、旅先でのピンチは 自分で解決しなくてはなりません。それをクリアするたび、自分の新たな一面 を発見し、驚くこともあります。

 そんな魅力溢れる「ひとり旅」をもっと「おもしろくする」多彩な旅のスペ シャリストを囲み、自分流の「オンリー・ワンな旅」をたのしい講座の中でつ くってみませんか?

◆日時
2004年4月24日(土)・25日(日)(24日13時~25日15時予定、1泊2日)

◆会場
横浜市こども自然公園青少年野外活動センター(横浜市旭区大池町65-1)

◆対象
海外へひとり旅をしたい、16歳以上の10代、20代の方
(ひとり旅をした・興味がある方や30代以降の方のご参加もお待ちしています)

◆定員
25名(定員に達し次第、締め切りさせていただきます)

◆参加費 
一般  18,000円 15,000円
学生  10,000円  8,000円
(ともに、1泊3食、保険料込み) ディスカウントしました。

◆ゲスト
西村 仁志 さん
 (環境共育事務所カラーズ 代表、「ヨセミテ国立公園大好き!」主宰)
山田 静 さん  林 和代 さん
 (ひとり旅活性化委員会 主宰)  (ひとり旅活性化委員会、フリーライター)
中村 岳彦 さん
 (都市銀行員、自転車の旅人)

◆主なスケジュール(予定。今後、変更される場合がございます。)
◇1日目(24日)
12:30 受付開始
13:00 開会、オリエンテーション
13:45 自己紹介、アイスブレーキング
15:00 ゲストトーク「ゲストのひとり旅体験談とコツを聴く」
16:45 ワークショップ1
   「グループワーク~自分の旅への思いをシェアして、棚卸しする」
18:00 チェックイン、夕食、入浴
19:45 ワークショップ2
   「グループワーク~旅をする上での課題を解決するアイデアを出す」
20:30 意見交換会、交流会
◇2日目(25日)
6:30 起床
7:00 オプションプログラム「テーマ別のアクティビティ・レクチャーを選択」
8:00 朝食
9:00 講義1「旅の準備と旅の企画書の書き方」
10:00 個人作業1「自分のひとり旅のイメージを固める」
11:00 ワークショップ3「グループワーク~旅の準備と旅のあと」
12:00 昼食
13:00 個人作業2「発表の準備とまとめ」
13:45 発表会「自分だけのひとり旅の計画を発表しよう!」
14:45 ふりかえり、まとめ
15:00 閉会
16:00 オプショナル企画「参加者・ゲスト・スタッフ有志による番外懇親会」

◆ゲスト紹介
◇西村 仁志 さん
(環境共育事務所カラーズ 代表、「ヨセミテ国立公園大好き!」主宰)
1963年京都市生まれ。20代から環境教育や自然体験に興味をもち、何かしたい 思いがふつふつと湧いて、周囲の心配をよそに1993年、京都YMCAの職員をやめ る。アメリカへのひとり旅の後、無職で家族とたのしく暮らしていたら「環境 共育」と”Colors of Nature”のキーワードに出会い、同年個人事務所「環境 共育事務所カラーズ」を開業。環境共育と市民参加のコーディネートがお仕事。 1995年からヨセミテに通いはじめて、その奥深さと楽しさにすっかりハマって しまっている。妻と1女1男あり。メールマガジン"Colors of Nature"発行人。
・Colors of Nature/環境共育事務所カラーズ http://colorsjapan.com/
・ヨセミテ国立公園大好き! http://www.colorsjapan.com/yosemite/index.html

◇林 和代 さん
(ひとり旅活性化委員会、フリーライター)
1963年東京生まれ。島で素潜りを始めて早18年。22歳で島と素潜りを覚え、25歳で貧乏旅を知り、27歳で素潜り漁を初体験。以来すべてがとまらなくなった。水中生物への愛は膨らむ一方で、今はオウムガイと小エビに夢中。『1日1000円で遊べる南の島』(双葉社)著。共著に『好きになっちゃったアジアの離島』、『好きになっちゃったミクロネシア』、『東京女ひとり暮らし』(双葉社)などがある。掲示板「みんなで作ろう南の島完全ガイド」の管理人。
・「ひとり旅活性化委員会」掲示板 http://www.go-kakuyasu.jp/bbs/fr_hitoritabi.html
・「みんなで作ろう南の島完全ガイド」掲示板 http://www.go-kakuyasu.jp/bbs/fr_minami.html

◇山田 静 さん
(ひとり旅活性化委員会 主宰)
1965年甲府市生まれ。ひとり旅歴、19年。学業のつもりで行った中国のワイル ドさにはまり、旅に首にまで浸かる生活に。この楽しさを世に訴えたいと旅行 会社勤務を経て、気つけば旅の雑誌や書籍の編集者。最近興味があるのは、ア ジアの美容、メキシコのご飯、覚えたての二胡。女性のひとり旅、個人旅行を もっと楽しくしたい、元気にしたいという趣旨のもとに結成された「ひとり旅 活性化委員会」の主宰。会の中心メンバーが作成した本、『女ひとり旅読本』 (双葉社)を出版後、1999年に会員の一般公募を開始し、現在700名を越える メンバーがいる。
・「ひとり旅活性化委員会」掲示板 http://www.go-kakuyasu.jp/bbs/fr_hitoritabi.html


◇中村 岳彦 さん
(都市銀行員、自転車の旅人)
1976年相模原市生まれ。小学生時代から地元のボーイスカウトに入り、大学時 代はサイクリング部に所属。大学時代、自転車での単独日本一周にはじまり、 北欧、エジプト、中国、シルクロードなど海外を自転車で疾走。都市銀行の営 業マンになった現在でも、休みを活かし海外に自転車旅行に出かける。
・大学時代の大学広報誌より「北欧、エジプト自転車の旅」(PDFファイル)
http://www.chuo-u.ac.jp/chuo-u/pdf/hkc_99n3/99n3_02.pdf

◆コーディネーター紹介
◇秋山 友志
(自分と出会う旅工房 代表、NPO法人かながわ環境教育研究会)
1978年横浜市生まれ。学生時代に自転車での旅(日本一周、アメリカ西部の国 立公園巡り)をして、自分を成長させるひとり旅のすばらしさを味わう。現在、 NPO職員として勤務する一方、個人事務所「自分と出会う旅工房」を2004年1月 より開業している。
・自分と出会う旅工房 http://www.j-tabikobo.com/
・個人ウェブサイト http://www.j-tabikobo.com/tomoyuki/

◆お申し込み方法
・「自分と出会う旅工房」へ電話、FAX、郵送、e-メールでお申し込みくださ い。お申し込みの時には、1.お名前(ふりがな)、2.性別・生年月日、3. 住所、4.電話番号・FAX、5.e-mailアドレス、6.所属(学校名・勤務先 など)、7.海外旅行の経験の有無(有の方は回数・誰と行ったか・国名もお 書き下さい)、8.何を通じてこの講座を知ったのか、9.この講座に期待す ることや参加動機などをご記入の上、お申し込みください。FAXや郵送、e-メ ールでお申し込みの場合は、下の参加申込フォームをお使いください。また、こちらのフォームを使って簡単にお申し込みができます。ご利用ください。
・お申し込みをお受けした方には、1週間以内に受理通知をお送りいたします。
・参加費は、講座開催1週間前までに【横浜銀行 西谷(ニシヤ)支店 普通 1195158 秋山友志(アキヤマトモユキ)】まで振り込みください。参加費の振 り込みをもって、正式な参加決定といたします。
・申し込み後不参加の場合は、キャンセル料がかかります。1週間前~3日前は 参加費の10%、2日前・1日前は参加費の50%、当日は参加費の全額を差し引き、 参加費をお返しいたします。

◆お申し込み・お問い合わせ先
自分と出会う旅工房
〒240-0053 横浜市保土ヶ谷区新井町356-2-908 秋山方
TEL 090-5198-0285
(留守電の場合はご用件をメッセージで入れてください。
 折り返しこちらより連絡いたします)
FAX 045-381-5021
E-mail  info@j-tabikobo.com
URL http://www.j-tabikobo.com/

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ひとり旅のつくり方講座(海外編) 参加申込書(全てご記入ください)
申込日  月  日

・お名前(ふりがな)
・性別
・生年月日   年  月  日(満  歳)
・住所 〒
・TEL
・FAX
・e-mail
・所属(学校名・勤務先など)

・海外旅行の経験の有無(有の方は、回数・誰と・国名も)


・何を通じてこの講座を知りましたか?

・この講座に期待することや参加動機など


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ひとり旅のつくり方講座(国内編)

「ひとり旅のつくり方講座(国内編)」

諸事情により、11月6日・7日開催予定の「ひとり旅のつくり方講座(国内編)」の
開催を急遽見合わせること(中止)になりました。

お申込をいただいたみなさまをはじめ、関係者のみなさま、大変申し訳ありません。
なお、次回の講座の開催につきまして、改めてウェブサイトにてご案内申し上げます。

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ひとり旅のつくり方講座(国内編) 参加者募集 【11/6・7、静岡県御殿場】
    ~自分だけのひとり旅をプロデュースしませんか~
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 「ひとり旅」と聞いて、「ひとり旅したいけど、私にはできそうにない・・・ 」とか「ひとり旅って、寂しくないの?」、「なんでわざわざひとり旅?」そ う思っていませんか?

 「ひとり旅」って、旅先での人との出会いがあったり、普段体験できないで きごとがあったり、結構おもしろいものです。行き先や泊まるところ、どんな 乗り物に乗るのか決めるのもすべて自由で自分次第。でも、旅先でのピンチは 自分で解決しなくてはなりません。それをクリアするたび、自分の新たな一面 を発見し、驚くこともあります。

 そんな魅力溢れる「ひとり旅」をもっと「おもしろくする」多彩な旅のスペ シャリストを囲み、自分流の「オンリー・ワンな旅」をたのしい講座の中でつ くってみませんか?




◆日時
2004年11月6日(土)・7日(日)(6日13時~7日15時予定、1泊2日)
※開催中止にいたしました。
◆会場
YMCA東山荘(静岡県御殿場市) http://www.ymcajapan.org/tozanso/

◆対象
国内のひとり旅をしたい(した、興味があるも可)、16歳以上の方

◆定員
25名(定員に達し次第、締め切りさせていただきます。最小催行15名)

◆参加費
一般 18,000円 16,000円、学生 16,000円 14,000円(1泊3食、保険料込み)
※参加費をディスカウントしました。

◆ゲスト
◇佐藤 孝子 さん (四国・お遍路の旅人/旅行ライター)
◇中村 真也 さん (自転車・登山の旅人)
◇山盛 洋介 さん (鉄道ライター/安城学園高校教諭)

◆主な内容(予定)
     ・ゲストによる旅の体験談を聴く
     ・テーマ(行き先別、手段別)ごとのグループセッション
     ・旅の準備・旅先でのトラブル対応・帰ってきてからの生活などを話し合う
     ・ゲストや参加者同士の旅の意見交換会・交流会
     ・自分だけの「Only One」のひとり旅をプランニングする
     ・プランニングしたひとり旅の計画を発表する

◆主なスケジュール(予定。今後、変更される場合がございます。)
◇1日目(6日)
12:30 受付開始
13:00 開会、オリエンテーション
13:45 自己紹介、アイスブレーキング
15:00 ゲストトーク「ゲストのひとり旅体験談とコツを聴く」
16:45 ワークショップ1
   「グループワーク~自分の旅への思いをシェアして、棚卸しする」
18:00 チェックイン、夕食、入浴
19:45 ワークショップ2
   「グループワーク~旅をする上での課題を解決するアイデアを出す」
20:30 意見交換会、交流会
◇2日目(7日)
6:30 起床
7:00 オプションプログラム「テーマ別のアクティビティ・レクチャーを選択」
8:00 朝食
9:00 講義1「旅の準備と旅の企画書の書き方」
10:00 個人作業1「自分のひとり旅のイメージを固める」
11:00 ワークショップ3「グループワーク~旅の準備と旅のあと」
12:00 昼食
13:00 個人作業2「発表の準備とまとめ」
13:45 発表会「自分だけのひとり旅の計画を発表しよう!」
14:45 ふりかえり、まとめ
15:00 閉会
16:00 オプショナル企画「参加者・ゲスト・スタッフ有志による番外懇親会」

◆ゲスト紹介
◇佐藤 孝子 さん
  (四国・お遍路の旅人/旅行ライター)
 1952年新潟県長岡市生まれ。同志社大学文学部卒業後、神奈川県で小学校の教員を17年間勤める。退職後、四国遍路の旅に出て、42日間かけ、通し打ちで結願。以来、お遍路の魅力にとりつかれ、暇を見つけては春夏秋冬のお遍路旅を重ねている。'99年4月~12月まで東京新聞に「お遍路ワールドを歩く」を連載。'96年度毎日児童小説最優秀賞受賞。著書に、『よくわかる西国三十三所徒歩巡礼ガイドブック』(東邦出版)、『四国遍路を歩く―もう一人の自分に出会う心の旅』(日本文芸社)、『四国お遍路ガイドブック―よくわかるすぐ行ける』(東邦出版)などがある。
  ・「世界お遍路 千夜一夜旅日記」 http://www.enpitu.ne.jp/usr5/59025/
◇中村 真也 さん
  (自転車・登山の旅人)
 1977年静岡県生まれ。6年間勤めた会社を退職して1年半に及ぶ自転車での日本一周に旅立つ。その中で各地の歴史散策、四国88ヶ所巡礼、さらには百名山を人力で全ての登頂を目指し旅を続け、その様子は毎日HPへと写真と共に公開してきた。日本の自然・歴史・文化・そして人、それら姿に魅せられ、また「伝える」という事に素晴らしさを感じ、04年夏は人力百名山完結へ向けて、日本アルプス徒歩往復の旅を同様に伝えながら旅する予定。
  ・「ShinyaNakamuraWeb」 http://shin.na-ka.jp/
◇山盛 洋介 さん
  (鉄道ライター/安城学園高校教諭)
 1979年名古屋市生まれ。幼少期より鉄道や時刻表に関心を持ち始め、全国を鉄道で旅するようになる。飯田線および三遠南信地域へは1992年夏の初訪問以来、70回以上訪問。1995年、第一回国内旅行地理検定試験全国最年少A級認定。1999年、国内旅行業務取扱主任者試験合格。2000年、JR全線完乗達成。立命館大学文学部地理学専攻卒。現在、安城学園高等学校社会科教諭。著書に、『私鉄沿線』、『各駅停車飯田線』(ともに春夏秋冬叢書)などがある。
  ・「Maruの汽車旅STATION」 http://hb5.seikyou.ne.jp/home/y-yamamori/

◆コーディネーター紹介
◇秋山 友志
  (自分と出会う旅工房 代表/NPO法人かながわ環境教育研究会)
 1978年横浜市生まれ。学生時代に自転車での旅(日本一周、アメリカ西部の国 立公園巡り)をして、自分を成長させるひとり旅のすばらしさを味わう。環 境教育NPOの職員・まちづくりNPOの事務局として、環境教育やまちづくり、人 づくりに従事したのち、2004年1月より個人事務所「自分と出会う旅工房」の 代表となっている。新名学園旭丘高等学校非常勤講師(商業科)。
・自分と出会う旅工房 http://www.j-tabikobo.com/
・個人ウェブサイト http://www.j-tabikobo.com/tomoyuki/

◆お申し込み方法
・「自分と出会う旅工房」へ電話、FAX、郵送、e-メールでお申し込みくださ い。お申し込みの時には、1.お名前(ふりがな)、2.性別・生年月日、3. 住所、4.電話番号・FAX、5.e-mailアドレス、6.所属(学校名・勤務先 など)、7.国内1泊以上のひとり旅の経験の有無(有の方は回数・行き先・日数などどんな旅行であったかもお 書き下さい)、8.何を通じてこの講座を知ったのか、9.この講座に期待す ることや参加動機などをご記入の上、お申し込みください。FAXや郵送、e-メ ールでお申し込みの場合は、下の参加申込フォームをお使いください。また、こちらのフォームを使って簡単にお申し込みができます。ご利用ください。
・お申し込みをお受けした方には、1週間以内に受理通知をお送りいたします。
・参加費は、講座開催1週間前までに【横浜銀行 西谷(ニシヤ)支店 普通 1195158 秋山友志(アキヤマトモユキ)】まで振り込みください。参加費の振 り込みをもって、正式な参加決定といたします。
・申し込み後不参加の場合は、キャンセル料がかかります。1週間前~3日前は 参加費の30%、2日前・1日前は参加費の50%、当日は参加費の全額を差し引き、 参加費をお返しいたします。


◆後援(順不同)
(財)日本YMAC同盟(社)日本環境教育フォーラム、御殿場市(申請中)、
御殿場市教育委員会(申請中)

◆お申し込み・お問い合わせ先
自分と出会う旅工房
〒240-0053 横浜市保土ヶ谷区新井町356-2-908 秋山方
TEL 090-5198-0285
(留守電の場合はご用件をメッセージで入れてください。
 折り返しこちらより連絡いたします)
FAX 045-381-5021
E-mail  info@j-tabikobo.com
URL http://www.j-tabikobo.com/



自己紹介

プロフィール(経歴、活動実績など)


簡単な自己紹介は、こちら


秋山友志 (あきやまともゆき)

1978年横浜市保土ヶ谷区生まれ。
自分と出会う旅工房 代表。
2007年4月より旅行会社に勤務。
立教大学大学院ビジネスデザイン研究科(MBA)修士課程。
専門分野:旅・環境教育・環境・教育・情報・経営・NPO/NGO・まちづくりなど





■資格等■

 総合旅行業務取扱管理者国内旅行業務取扱管理者

 情報処理技術者(初級システムアドミニストレーター)

 第1種教員免許状(中学校社会科、高等学校地歴科・公民科・商業科・情報科)

 日商簿記検定2級

 環境カウンセラー(環境省登録、市民部門)

 プロジェクト・ワイルド上級指導者(ファシリテーター)

 自然体験活動(CONE)リーダー初級

 日本エコツーリズム協会 第1回エコツーリズムコーディネーター養成講習会 修了


■主な経歴■

 学生時代に横浜YMCA(キリスト教青年会)にて、ボランティアリーダーとして子どもの野外教育・環境教育活動に携わる。

 一方で、自転車での旅(日本一周、アメリカ西部の国立公園巡り)をして、自然の偉大さを感じる。

 2001年4月~10月、岐阜県郡上八幡の自然学校「郡上八幡自然園」にある環境教育NPO「メタセコイアの森の仲間たち」にてインタープリターの実習生として自然体験活動型の環境教育を多くの子どもに伝える。

 2002年2月、かながわ環境教育研究会の会員兼専従職員になる。

 同年4月より、神奈川県大和市地域通貨「ラブ」支援センター「特定非営利活動法人 ラブスサポートセンター」にて事務局員として勤務する。

 2004年1月より、個人事務所「自分と出会う旅工房」を開業し、代表として活動している。

 2004年9月~2007年3月新名学園旭丘高等学校非常勤講師。

 2005年4月~2006年3月 北海道情報大学通信教育部経営情報学部科目等履修生。

 2006年4月~ 立教大学大学院ビジネスデザイン研究科(MBA)修士課程

 2007年4月~ 旅行会社に勤務。


■学歴・職歴■


1997.3  神奈川県立瀬谷高等学校 卒業

1997.4  中央大学経済学部国際経済学科 入学

2001.3  中央大学経済学部国際経済学科 卒業

2001.4  特定非営利活動法人 メタセコイアの森の仲間たち 入職

                                  (インタープリター実習生)

2001.10 特定非営利活動法人 メタセコイアの森の仲間たち 退職

2002.2  特定非営利活動法人 かながわ環境教育研究会 入職

  2002.4 特定非営利活動法人 ラブスサポートセンターの事務局として出向

  2004.1 自分と出会う旅工房を開業し、代表となる

2004.3  特定非営利活動法人 かながわ環境教育研究会 退職

2004.4~ 自分と出会う旅工房 代表

  2004.9~2007.3 新名学園旭丘高等学校 非常勤講師(商業科)

  2005.4~2006.3 北海道情報大学 通信教育部経営情報学部科目等履修生

  2006.4~ 立教大学大学院ビジネスデザイン研究科(MBA)修士課程

2007.4~ 旅行会社に勤務



■いままでにこんなことをやっています(活動実績)■

●旅に関すること

◇企画・主催・コーディネーター:セミナー「ひとり旅のつくり方講座(海外編)」
   【2004年4月24・25日(横浜市こども自然公園青少年野外活動センター)】 →詳細

◇企画:個展「チャリの旅展~アメリカ西部の国立公園と日本一周~」

   【2000年10月11日~15日(横浜市岩間市民プラザギャラリー)】

   【2000年11月18日~27日(アーバンアートほどがや)】

◇企画・発行:メールマガジン「風に吹かれてチャリの旅~旅は自分との出会い~」
   【2003年12月17日~(まぐまぐマガジンID:0000122646)】 →詳細

◇講師:ベンチャースカウト勉強会2002「ダイナミックな野外活動」

   (自転車の旅の話をしました)

   【2002年4月16日・17日(横浜市野島青少年研修センター)】

◇写真提供:高等学校教科書「現代保健体育(大修館書店)」

   (「自己実現」の単元にて、グランドキャ二オンでの自転車と私の写真を提供)

◇出演:IBC(岩手放送)ラジオ(番組名は忘れました・・・)

   (チャリ日本一周の最中、街角レポートに生放送でインタビュー5分程出演)

   【1998年7月31日】

◇取材:ミニコミ誌「タウンニュース」(「人物風土記」というコーナーでインタビュー)

   【2004年3月25日号(保土ヶ谷区版)、4月1日号(旭区版)】 →詳細

●環境教育・環境・教育に関すること

◇企画・ファシリテーター:社団法人日本環境教育フォーラム 清里ミーティング2002

   分科会「地域通貨ってなんだろう?」

   【2002年11月17日(山梨県、KEEP協会)】

◇共同企画・ファシリテーター:社団法人日本環境教育フォーラム 清里ミーティング2002

   分科会「ひよこのキモチ~実習生・研修生って何だろう?~」

   【2002年11月17日(山梨県、KEEP協会)】

◇学会発表:日本環境教育学会 第13回大会(仙台)

   「大和市体験的環境学習推進事業結果報告

    -事業の推進におけるNPOの役割と評価-」

   【2002年5月26日(宮城教育大学)】

◇学会発表:日本環境教育学会 第14回大会(愛知)

   「LOVES(地域価値交換システム)を活用した循環型社会への大和市の取り組み」

   【2003年6月1日(愛知教育大学)】

◇ボランティア:横浜YMCA 野外活動クラブ ボランティアリーダー

   【1997年5月~2001年3月】

◇インタープリター(実習生):特定非営利活動法人 メタセコイアの森の仲間たち

   【2001年4月~2001年10月】

◇事務局:大和市環境シンポジウム2001、2002「やまとの環境を考える集い」

   【2002年3月、2002年11月】

◇委員:社団法人日本環境教育フォーラム 清里ミーティング2002 企画委員会

   【2002年】

◇委員:保土ヶ谷区民会議環境分科会副座長 【2003年4月~2005年3月】

◇委員:「ヨコハマはG30」保土ヶ谷区推進本部委員 【2003年4月~2005年3月】

◇コーディネーター:横浜YMCA 創立120周年記念シンポジウム【2004年11月】

   「これからの環境教育を考える~持続可能な社会の実現を目指して~」

◇講師:新名学園旭丘高等学校 非常勤講師(商業科)【2004年9月~】

●まちづくり・その他の活動に関すること

◇企画・ファシリテーター:地域通貨ワークショップ(市民・事業者向けに約10回)

   (「特定非営利活動法人 ラブスサポートセンター」の事務局として主催)

   【2002年7月~2003年3月】

◇企画:サプリケーション・プロジェクト主催 カラーコーディネートセミナー【2005年4月】

◇事務局:地域通貨運営のNPO法人

   (「特定非営利活動法人 ラブスサポートセンター」の事務局として)

   【2002年4月~2004年8月】

◇委員:保土ヶ谷区民会議運営委員 【2003年4月~2005年3月】




■こんなことができます(得意分野・資格)■

●旅に関すること

◇資格:総合旅行業務取扱管理者・国内旅行業務取扱管理者

◇プランニング:旅に関するセミナーの企画やコーディネート

◇講師:自転車の旅、キャンプの旅、冒険の旅、ひとり旅に関するお話

   (学校の授業、野外活動のセミナー、講演など、どんな場でも面白く話します。)

◇写真提供:自転車の旅の写真

   (日本一周、アメリカ西部国立公園巡りの写真が約500枚程。)

◇コンサルティング:旅全般

   (特に自転車の旅やひとり旅のプランニング~帰ってからのことまで。)

●環境教育・環境・教育に関すること

◇インタープリテーション:自然と人のつながりを分かりやすくお話します。

   (特に里山の自然と人の暮らし、水の循環、森と木のお話が得意です。)

◇ファシリテーション:環境教育のワークショップや自然体験の場で

   (特に、グループワークを用いたものが得意です。)

◇環境教育プログラムの実施:プロジェクト・ワイルド(ファシリテーター)

   (自然体験型のプログラム。ネイチャーゲーム、プロジェクト・アドベンチャーも可)

◇カウンセリング:環境カウンセラー(環境省登録、市民部門)

   (環境教育、自然体験活動、リサイクル、環境と経済などが得意分野です。)

◇教職:中学校・高等学校の社会科の第一種教員免許

   (一応、持っております。中学校社会科、高等学校地歴科・公民科・商業科・情報科)

◇話題提供:環境教育・野外教育、インタープリテーションのことなど

   (その役割や現状など実体験を元にお話できます。)

●まちづくり・その他の活動に関すること

◇ファシリテーション:地域通貨やまちづくりに関するワークショップ

   (特に、グループワークを用いたものが得意です。)

◇話題提供:NPO/NGOや個人事務所で働くこと、ワープショップ、地域通貨のことなど

   (その役割や現状など実体験を元にお話できます。)

◇その他資格:情報処理技術者(初級システムアドミニストレーター)・日商簿記検定2級




■いままでこんな旅をしました(おまけ)■


●幼少時代~高校生時代


◇幼児期:三輪車で自宅から5km離れた所まで行き、迷子に。

     無事、近所の方に助けられ、自宅に帰る。

◇小学生時代:親に、山梨や丹沢の山に連れて行かれる。

     また、同級生などと自転車で近所を走り回る。

◇中学生時代:同級生数人で、日帰りで江ノ島や丹沢へサイクリング。

     その一方で、一人で日帰りで県内の国道をサイクリング。

     卒業自転車旅行として数人で、初めて泊りがけで伊豆へ。

◇高校生時代:高校1年の夏、中学時代の仲間と泊りがけで、自転車房総半島の旅へ。

     その後も中学時代の仲間と、丹沢を中心に日帰りサイクリング。

     高校2年の夏休み、初単独自転車の旅へ。(21日間、自宅~飛騨高山~自宅)

●大学生時代

◇日本一周:大学2年の夏休みを全て(64日間)使い、自転車単独の旅。

     このとき、生まれて初めて飛行機に乗り、JRの「青春18切符」を使う。

◇アメリカ西部国立公園巡り:大学3年の夏休みのほとんど(51日間)を使い、

     初めての海外旅行にして自転車単独の旅。

◇卒業旅行:最初のまともな海外旅行。友人と2人で4日間、タイのバンコク・アユタヤへ。

●最近はまっている旅

◇小笠原へ旅:いままに6回訪島。合計で7航海。小笠原の旅は、ブログで公開中。

第25回 日本一周、その後

 日本一周の旅を終え、横浜の自宅に着いた翌日、私は大学に向かった。
長い旅を終えたほんの翌日、旅の前と変わらない生活が始まったのだ。

 大学へ向かう満員電車の中で、旅であったことを思い出していた。自転車の 旅から一転、満員電車での通学。ギャップで違和感を感じるかと思ったが、意 外に違和感はなかった。
 予定より1週間ほどゴールの到着が遅れていたので、大学の授業は1週間遅れ となっていたが、大学出会う友達はみんな口々に「どうだった?」とか「焼け たね~」と話しかけてきた。

 日本一周の旅をして、私の中で何かが変わったかと言うとそうでもない。旅 で何かが変わったと言うより、旅の経験をこれからの生活の中で、どう活かす かが大切と思う。

 こうして、私の学生生活は再び始まった。いつもと変わらない生活だった。 でも、旅を終え、日にちが経つにつれて、私の中で何か、消化不良というか心 の奥で旅への想いが沸々と湧いてきた。
 何か言いようのない想い・・・。想いは、すでに日本ではなく、日本の外に 向いていた。

 こうして、日本一周の旅を終えた私は、次の旅は海外だと心に決め、1年後 また夏を迎えようとしていた。


<アメリカ西部編の第1回へつづく・・・>

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